
生年月日時による命理の分析、運命の解析。
今どうあるべきか? どうすべきか? どんな運気レベルにあるかという運勢指南。
これまで専門書に学理を尋ね、深遠な人生哲学、運命哲理を求めて数多くの書物を読んできましたが、その詳細に説く所のものは、果たして現在の時代に適合するものかどうか…
あらゆる場面で、その錯誤情況に直面しています。
古書に真理など無し! そう感じる事、心惑う事しきりです。 無論長い歳月をかけて編纂された書物であり、説く所は重く深いものがあります。しかし時代時代によって社会構造が変化する。その構造変化が価値観を変えていく。善悪正邪も又しかりです。
その変化による社会総体の価値観や世情の変容を捉える事なしに占断に走っても、依頼者の腑に落ちる結論は少ないものだと思われます。
例えば易経の倫理(人の道)を説き正した所で、今の世情では、ことごとく的外れとなる事ばかりでしょう。 大昔の修身の観念など意識下に無く、単なる情報としてさえも入力されてない所で、道を説く筋合いなんか何処にも無い筈です。
温故知新「古きを尋ねて新しきを知る」といいますが、運命書の類は、古きを尋ねて古きに固着するというべきです。 現実の占い相談の場面では、対座する人の抱えている人生の意味とその方向付けが大半のテーマであり、立ち位置や存在領域の把握が問題となってきます。
この数年、数十年の間に世代交代もあり、人の心や悩みの質も変わってきているのです。世間の常識自体も大きく変化している事を痛感いたします。
何を以て吉凶禍福を語るのか?
その時代性を抜きにして処世の道筋を指し示しても、まるで見当外れになる場面が多いのです。
古書を通読して学ぶ時には、今日的な情況に適合する概念かどうかを、充分に吟味する必要があると思います。。
初学の者が、命理推断をして、やれ「色情因縁の生まれ」だとか「剥官の生まれゆえに世間から外れはみ出し、最期は野垂れ死にの命運」などと断定して失笑を買う場面となる訳です。
「色情因縁」とは凄い表現です。性的な欲求衝動がむき出しとなって情交を貪る、それが制御出来ない人を指すようですが…
でも、人は皆、色情の因縁無くしては、この世に生まれ出る事が叶わないのですから、これこそ人の本然の性(さが)というべきで、根拠曖昧な差別用語なのです。
「咸池殺」とか「紅艶殺」とか「己土濁壬の姦淫の命」とか…
書物を読み耽っている間はいいとして、それを実占の場で断定して言い放った時にはシャレにもならない。或いは人権侵害すれすれの話になってしまうのです。
「剥官」とは「官」である「お上」に背く意です。官僚世界や企業社会の中枢機構に適合し得ない命運を表す概念です。かつては中央集権国家であったため、官の星を破る命理を忌み嫌った言い回しなのです。官の星、つまり官職で生きる特権社会は、昨今は公務員制度も見直される所であり、大企業、基幹産業等に於いても倒産があったり、事業不振でリストラもあり、終身雇用も崩壊しつつあるのが実情です。
こんな時代にはむしろ剥官の命の人がかえって運を掴まえるものです。ドロップアウトもあり、世間から外れきったアウトロウが成功して天下を取る時代でもあります。
古書に、人品骨柄富貴貧賎を解いているものが多々あります。
しかし現実に貴格の命理と思われる人がさっぱり振るわなかったり、賎格の命理の人が大きく成果を出していたり、男女各々の貴格賎格として人柄を語る時も、決して命理通りに断定出来ない場面が多いものです。
嫁取りの吉凶など、「煮ても焼いても食えない女命」などという記述もありますが、そうした命の方が実際には賢婦人が沢山居られます。
『占いとは、さながら暗闇にて象に触れるが如し』
鼻をこすり耳を撫で尻尾を握り腹をさすり足を抱き尻尾を握る。全部が象の体であるに違いない。しかし、そのある部分しか感知認識出来ないのです。
占い師は、もっと謙虚になるべきです。そして占いに頼る人も、言われるがまま、占断結果を盲信する事なく、あくまでも自己確認の一助として吟味するべきです。
『占い本の世界・運命学雑感』 改稿