
いつの間にか 自分で自分を見つける事が
出来なくなってしまった
『わたしって誰?』 何を考え 何を求め
何処に行こうとしてるんだろう?
自分が解らない 自分が見えない
何だか その時その時の立ち位置が
それらしく見えるように それらしく認知されるよう
知らない内に醸成された人物像を作っている
それは自分なんかじゃない
自分とは違う自分を演じているだけなんだ…
でも でも一体
『私って何? 私って誰?』
真の自画像を自覚して、しかも対外的にもそのままに表現して生きる事がどれだけ難しいか。いつでも自らの存在理由は、取り巻く他者の承認に委ねられている。認知されなかったり拒否されたり、承認の対象から外されたり無視される場面で、胸が痛み心が傷んでいく。
誰しもが抱く、人との関係への恐怖観念が、自分から、自分らしさから乖離した自己発現を誘発して、別人格を創ってしまうのである。
嫌われる事は辛いけど耐えることは出来るかもしれない。嫌われる現実は、ともあれ認知はされたのであり、仕向けた自我は辛うじて無視はされなかったのだから… 何より怖いのは無視される、黙殺される事である。それは自らの存在基盤の全否定になるからだ。そこに居るのに、居ないという現実を突き付けられるからである。
知らず人は、承認を求めて本来の自画像を歪めながら他者と向き合っていくのである。本来の姿を理解されたいが、先ずは認知され受け入れて欲しい。そんな葛藤の先には、捏造された自己が晒されていく事になる。
幼児期に、ありのままの自我の発現が周囲から拒否弾圧を受けた人は、とりわけ屈折した心象を持っており、心とは裏腹の感情を見せては自他共に混乱の渦を作ってしまう。天真爛漫で無邪気な振る舞いを、ワガママとなじられた者は多い筈である。親や取り巻く大人達の理不尽な叱責に屈服させられた人の『自我封印』のドラマである。
こんな人の場合は、喜怒哀楽といった原初的な感情のサインが示せずに、まるで異なった表現となって、理解はおろか大きな誤解を生んだり、唖然とさせる場面を醸成するのである。哀しい原体験がある…。感情を努めて封じ込めないと家族と一緒に居られない時代があったのである。正直になれない、素直になれない、人の顔色、人の目ばかりを気にする。上手く演じた。承認を取り付けた。でも解って貰えた事には決してならない。
だから「本当の自分はそんなんじゃない!」という事になる。
本来の自分と演じる自分の差異を自覚していればまだしも、何なんだかさっぱり解らない『あたしって何者?』という自己喪失者が山程いるように思われる。自分らしさが解らない。自分が本当に求めるものも解らない。苦悩しながらも、いつまでも葛藤状態から抜け出せない人々。
これは自己対話の欠落と他者依存の心が根底にあるのが原因である。自らの存在基盤を否応なしに決定する他者の目を意識の中心にする事で、どんどん自分と乖離した疑似人格を作り出す事が原因なのである。究極、他者の承認なくして、人は生きる場所を得る事が出来ない。これは真実であるが、それでも内在する自分自身の価値観や思想性や行動理念といったものを、いかに表現し、どう受容させるかで他者との関係実態が変わっていくのかを、考えてみるべきである。
愛されたいから、愛されるよう振る舞う。だが現実は本当の自我とは違う感情を見せているため、相手の対応に不協和音を感じはじめる。して欲しい事とされる事の落差に途方に暮れるばかり。恋愛問題の「イロハのイ」に互いのコミュニケーションギャップがある。可愛い女を演じつつも、決して可愛くもない本音があったり不満因子を抱えていたり、実は思い切り議論だってしたいのに、もし正論をぶつけて嫌われてしまうんだったら辛いから…そんな情況で物分かりのいいブリッ子をやり続けて、揚句は自滅パターンなんて事がよくある。
『自分らしさ』を感知するためには、本当の自分は「これが好き、あれが嫌い、こうなりたい、あぁなりたくない」といった段階から、次々に価値意識の本流を作り、思想性を持つ事である。人生の選択肢の骨格を持つ事である。人間関係はいつも相互の交流によって影響し合うものである。相手の目の中に映し出される自分は、自分の投げ掛ける言葉や態度や波動によるのであって、相手の思惑で勝手に作られるものでは決してない。
自分を創り、表現してみよう。試行錯誤しながら自分らしさが次第に出来ていくものである。さらに、表現しないものは絶対に理解されない事も知っておくべきである。理解されたいと思うのなら、されるよう自分から告げる事である。理解されるまで告げる努力をするのである。
人生を創る事は、自分を創る事に他ならない。お互い頑張りましょう。
長文読了お疲れ様です。有り難うございました。
『本当の自分』復刻加筆改稿