
心に溜まった澱が胸の中に滞留して
何もかもがチグハグになっている
愛する かけがえのない人に
思ってもいない 残酷な言葉をぶつける
共感も持てない人の誘いかけに
嬉しそうに 微笑み返しをする
欲しくもないものをむしり取る
そして失ってはならない大事なものを放り投げる
楽しくもないのに満面の笑み
悲しくもないのに零れ落ちる涙
此処はどこ? 私は誰?
自分の心が自分に乗っからない
勝手に動き出す体
勝手に口を衝く言葉
胸の中に潜む 魔の心
誰かが いつしか棲みついた
もうひとつの私 もうひとつの人格
いや もっとあるかもしれない別の私
まるで操り人形になったみたいな
どうにもならない心の様・・・
自分が見えない 自分が解らない
何が欲しくて 何がいらないのか?
何がしたくて 何がしたくないのか?
行きたい所が何処で
居たい所が何処なのかも解らない
どうして こんな私になってしまったのだろう・・・
大なり小なり犯す過ちなのだが、なりたい自分を探し求める過程で、人は幾つかのパーソナルデザインをしてしまう。最初は類型的なバターンを模倣する所から始まるのだが、次第に成りきる事に躍起になり、別人格を心に醸成するようになる。
立ち居振る舞いも、らしくなって擬似人格であるのをいつしか忘れてしまうのである。
すっかりその気になって思考レベルまでが出来上がったと知覚した時、次はさらに新たなパーソナルパターンへと移行していくのである。実はただの思い込みであり、自らの心めがけての詐欺行動でしかないのだが、成りきりの怖さは、成りきった瞬間から真の達成自覚を錯誤する所にある。
そうして、様々な複合人格を持ってしまうと、最期は思考と行動の軸が揺らぎ始め、ついに憑依性人格障害の様相となる。
思考と行動がチグハグになってしまうのは当然の成り行きである。マジナイ系の人間には丸ごと憑霊さばきの対象になる症例である。
心の浄化が必要になってくる。自分の素の状態に戻す事が大事になってくる。
なりたい自分となれる自分、そしてなれない自分を考えてみる事である。
無理をせず、自分に嘘をつかず、洗いざらい自分を晒してみる事である。
一枚一枚纏った衣を剥いでいくのである。大変な作業だが、剥ぎきった所で本当の自分と再会のドラマとなる。
本当の自分は、実は案外覚醒した意識構造を持っている事を知るだろう。
物の怪が憑いたといえばその通りで自念錯乱の産物なのである。
こんな情況に陥る人がどんどん増えている怖い時代になったものである。
人格すらもが、ダウンロードしてインストール出来ると思うのだろう・・・