
何気ない日常の場面場面で、人はどんな視点で他者の事や物事、現象について認識しているのだろう?
おそらくその殆どが先入観や自分の勝手な物差しで計っているに違いない。
人は自分の都合で相手を見る。気に入った人、好感を持つ人に対しては、その言動も良く思えるだろう。だがもし気に障る人ならすべて気に食わないものである。相手を好きか嫌いによって物事が良くも悪くも思えるようになる。たとえ真実を告げたとしても、その時の情況や対峙する人対人の関係実体によって真実も不実に変ってしまう。
人はいつでも、こうした好悪の観念や思い込みのレベルで取り巻く外界世界の物事を計り定めているのである。
どんなに正しい事でも、どんなに高遠で崇高な思想や理念でも、この人間の吐いた言葉なら絶対承服出来ない、同意したくない。もし別の人間から投げ掛けられたら、すぐにも賛同するのに…
こんな場面が至る所で起っている。公平で確かな視座を持つのは難しい、さらに心を定めて視点を保つのは至難のわざである。つとめて意識して、事の正否や善悪是非を見詰めていく必要がある。
当て推量や先入観、まして好き嫌いの観念で物事を計れば、あらゆるものが歪んで見える。そんな意識で決めつける所からは本質も真実も決して見えてこない。
果たして自分の想念に曇りはないか? 感情領域に屈折や混乱或いは激発はないか? 認識プロセスに偏見や拘泥が生じていないかどうか?
物事の確かな認識から自覚が始まり、そこから行動を決定づける意識が生まれてくる。だが、この時認識過程に一体どんなスケール(物差し)が使われるのかが問題になってくる。この物差しこそが学習成果であり教育的所産であり、大きな意味では思想体系の根幹(理念型)の所産である。無意識無作為に知らない所で操られる観念がある事を知るべきである。
いつでも何となく物事を判断している自分の物差しを確かめ顧みる事である。「何となく思う」その心が何処から来るのか? どんな思考の流れになっているのか?
これは或いは『不確かな目』なのかも知れない? そう思う所から、少しづつ確かな認識が始まってくるのである。 絶えず自分の意識や観念という想念世界の方向性を模索する人は、人生の選択を大きく踏み外したり錯誤したりする事がないものである。
公平な目、確かな目が大事なのは言うまでもない。でも嫌いな人間をあえて好きになる必要はない。問題は.ただ嫌いだからといって全否定をするのは愚行となる事を知るべきという事なのである。
自分の心のあり様を知る事は、明日の自分創りの糧となる。人生のあらゆる場面で身に起こる事はいつでも自分の心の写し絵なのだから… 絶えず心を見詰め創り錬磨していかなければならない。捕らえどころも無く変幻を繰り返す『心』だが、その心が人生を創り出していくのである。
狂いのないできるだけ正確なスケールを作るには深い学習と経験則が必要となる。
『思考と行動の基本軸』は日々の弛まぬ研鑽によってしか得られない。
『確かな目 不確かな目』復刻転載