
何だか落ち着かない 心がざわめいている
もう 何も心配する事が無くなったのに
何も自分を迫害し弾圧するものがないのに
がんじがらめの苦しい情況が終りを告げたのに…
なのに どうして?
これまでの人生 一日たりとも心安らかな時が無かった
いつだって 人の顔色を窺っては コソコソと生きて来た
自分なんて無かった 自分意識を持つなんて赦されなかった
そして
やっと晴れて自由の身になった
それなのに何故 どうして?
強迫的な圧力を受け、自我が崩れてしまうような苦しい情況。
親子、夫婦、兄弟などの肉親関係、或いは職場や組織の階級構造、学校での友人、近隣の人間関係…
そうした関係の中から凄まじい迫害の境涯に陥し入れられる人がいる。
人対人の織り成すドラマは時に想像を絶するほどに惨いものがある。
だが、そんな迫害の情況から、解放される時が来て、もう何の心配も要らない立場となった。もはや安心立命の境地になるべき筈なのだが、むしろ心は曇り、果てしない寂寥に包まれてしまう人がいる。
人を生かす道は、幸せばかりじゃない。虐げられ踏み付けにされ、人としての尊厳を否定された結果、「憎悪、反発、嫉妬、忍従」そして心の奥底の復讐の念。そんな邪念や怨念に彩られた悪想念で生きる人がいる。
不幸に慣れきった者にとっては、幸せの境遇が反って恐怖となる。
苦難こそが生きる糧になっているのだから…
この人にとっては、解放感よりも、むしろ何処に身を置いていいのかで、不安な神経回路が発動し、心が混乱を来たす事になるのである。その圧迫が重く永ければなおの事である。
日常的な苦難の様が、何処か耐える事で自我を支えてきた歴史に終止符を打つ事になる。
そして今後の人生の基本軸を造り変える作業に入るのだが、その時、逆に恐れおののいてしまうのである。
神はいかようにも人を試す。こんな人生を与えてまで試すのだが、心に宿す想念こそが幸不幸の分かれ道である。不幸であるより、幸せに生きていく事が良いに決まっているが、不幸に慣れきった人にとっては、その幸せ造りが、恐怖観念に化けてしまうという悲しい現実があるのである。
人生の達成領域に入った人のあっけない死を散見するのは、こうした心の様を写し出す事なのだろう。
人間とは因果な生き物である。もっともっとしたたかに幸せを享受満喫する心を是非とも創っていくべきである。
『封印が解かれる時』 復刻加筆改稿