明日から冬休み
四日から仕事始めです。さあ、皆様良いお年をお迎えください。 年明けから、前向きな未来ビジョンを描いていきましょう。
厳しい世情、見えない明日。でも精一杯自分と向き合って揺らぎのない思考と行動の基本軸を創ってまいりましょう。
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年末の恒例行事
様々なお客様があり、相談内容も人生上に起こるありとあらゆる事柄に及ぶのだが、日常は、次々に一話完結してしまうので、思いをはせることが少ない。でも、年賀状を書いていると、それぞれのお客様とのやり取りが巡ってきて感慨深いひと時である。長く会わないお客様も多い。遠くに居られる方々は、電話相談になり顔も合わせていないのだが、それでも回想して、今頃は如何しておられるかなどと想ってしまう。住所録を見て、本当に古いお客様なのに思い出に残る人には、何年も没交渉ながら思わず筆が走ってしまう。
一年の締めくくりという事だが、実はもっと長い自らの仕事の総括として、何年もの過去が逆旋する場面である。
人はおのずと過去を背負って生きているのである。今の思いもこれまでの春秋の軌跡として、意識構造に刻まれている想念の記憶から導かれるものである。したがって、我が仕事においては、クライアントの想い、悩み葛藤など、いろいろな場面を想起して、今の相談現場に投影させながら今後の糧とする訳である。書物で学ぶ事は、実際大したものじゃない。人生の現場レポートこそが、生々しいドラマを語るものである。関わる人々から、どう生きるのか?を知らされる事がほとんどといっても過言ではない。
「出会いに感謝」出会い語り合う事に感謝。私の知恵など、実は皆様からの借り物なのである。換言すれば、我が師は、クライアントである。皆さん、本当にいろんな人生模様を見せて下さって心より御礼申し上げます。いろんな場面で皆さんからパクッた言葉で仕事させて貰ってます。又、お目にかかれる日を楽しみにしています。
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何となく就いた職業
小学校の教員になって二年目の女性がおいでになった。 「何だか自信が無くて・・・児童からなめられてるみたいで、うまく統率できないんです。もう辞めたほうがいいんじゃないでしょうか?今だったら、まだ別の分野で自分を活かせる事があるような気がするんです」 混沌として頼りなげに問いかけてくる。
何となくとご本人は告げるが、教員資格を取得するまで、大学で教職課程を受講し教育実習を経て、相応の努力研鑽を果たし、晴れて就業を叶えた訳である。成り行き任せで現在があるはずが無い。数年の自分史を確認すれば、かなりの実体感のある話と理解できるのだが、運が良かったのか、全てが順調に運んだ結果の本人の感慨である。
問題は、自分の存在領域と自分の意識構造が合体しない事なのである。願って求めて手に入れた境遇という認識に欠けた事もあり、仕事に向かう自らの意向がないまま、対応した結果の不安心理なのである。
自分の置かれた立場に自分の心が乗ってない。自分らしさを自らの職業次元に投影できない悩みなのである。其処に居ながら其処に自分の心が無い。浮遊した観念で事に当たるので、いつもチグハグな場面を作ってしまうのである。
こんな悩みの人が巷には溢れているのである。自分の選んだ生き方に充分の存在意義を持てないのは、この人ばかりではない。こうしたい、こうなりたい、そしてどうするか? という思考回路があって、意味のある人生の選び取りが叶うのだが、自己対話の欠落により、いつも成り行き任せの境遇に留まっているのである。
別の分野でどう発展出来るかについて、占断してみれば、残念ながらまるで達成領域は見えてこない。本人に正してみると、今が辛いから、思いつきで違う人生を考えてみただけの話。実情はなんらの未来ビジョンもない事が判明。
「とにかく今ある自分を精一杯生きて見る事。今の立場を貫いて確かな答えを創り出す事。自分の人生の流れの中で、今の自分は運命の必然に居る事を自覚して、関わる人たちとしっかり向き合い、自分とも向き合い確かな自分を見つける事」彼女の実情は推察すると挫折領域にはなっておらず、自己実現の可能性が充分残っているのである。
「きっと、児童の心もつかまえ、ちゃんと統率も出来るようになるし、慕われる良い先生になるよ」と告げたのである。運気の影響もあって、この人はいまだ、人生の目標が見えないカオス状態に留まっているのである。あとしばらくして、意識もはっきりして、自己認識も出来るサイクルになって、確かな手ごたえを今の仕事に実感すると思えるのである。
明日は、今日という点から始まる。続く明日の点がさらに連鎖して線となる。その線が次第に折り糸となって、人生模様を編みこんでいくのである。今の心が、「念」である。明日を創り未来を決定するのは、今の心を想うことから始まる。今の心を想うのが、すなわち「想念」なのである。想念のエネルギーを強く保つ所から人生の達成領域が見えてくる。
日々の想い、心を培う事である。今在る自分と大いに語り合う事である。
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久々に叔母がおいでになりました。
父親の妹です。いまだ仕事を持っており、着付け教室の先生です。歩く足取りも軽く、我が相談室は4階でエレベーターが無く、螺旋階段で上るのですが、スタスタと息切れも少なく上ってしまいました。
4年前に配偶者を見送ったのですが、その叔父は97歳までびっくりするほど元気でした。長生きも芸のうちとか言いますが、何といっても考え方がいつも前向きで、明日のビジョンを持とうとして日々新たな自分を模索する人たちなのです。
その下の弟である叔父も、86歳で、元気です。日々あちこちに出かけて、いろんな人々と親交を深めつつ充実の人生を送っているのです。
我が父はというと、75歳で他界。70歳までは、会社勤めをしていましたが、退職後は、すっかり意気消沈して、あっという間に病に倒れ、逝ってしまったのです。会社人生の人、仕事人生の人だったのです。余生をどう過ごすかについてのプランがまるで無かったのです。
生きる糧、それは希望の光です。どう生きようか、どう人生を楽しむか、です。生きがいの創り方を知らないと大変です。もっとも生きた年数が人生の価値にはならないのですが、テーマ喪失のため、逝ってしまうのは、やはり悲しいです。切ないです。
今日は、叔母から逆に励まされた思いがしました。「逝くその日が来るまでは、明日を創っていこう」という前向きな処世観を頂きました。
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他者より掛けられた悪想念。 あるクライアントの例。
「これから、私は三回の地獄を見るそうなんです。死ぬことも考えてしまうような究極の悲劇に見舞われるそうなんです。それを見事抜けることが出来たら、人生の復活のドラマがあるそうなんですけど・・・」
ある、占術家に運命の審察をして貰ったときに、こんな事を言われたそうである。この場面については、占い師も人間であり、その状況で不協和音が伴って、心理的にクライアントに圧迫感を覚えた術家が威圧や示威行動に出てしまった結果の脅かしバージョンであろうと解析して、ご本人を納得させた筈なのである。
しかし、この人は、関わる人々に、この地獄話を数限りなく告げているのである。関係各方面に私も知り合いがあるので、何度も情報が入るのだが、占いの結果の悪い暗示は、かなりの運命阻害の誘導力があるものである。現実に今、苦境に居る彼にとっては、深刻な場面なのである。何とか、この悪想念の脱却を図りたいものであるが、日増しにエスカレートするマイナス思考に当方も打つ手がない状況となっているのである。
未来予想は、問われればどんな占い師もそれなりのことを告げるのであるが、運命は運ぶ命なのであって、定められたものでは決してない。 「そのようになる」のではなく、「そのようにする」のが運命である。
「占いは悪い事ほどよく当たる」のは、悪い事ほど頭から離れず思い込んでしまうからなのである。このままいけば、悪い現象が実現してしまう可能性である。早く想念の曇りを祓わなければならない。
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tiem.ARAGOTO 公演 『エビ大王』青山劇場 洪 元基原作 岡村俊一演出
筧 利夫・さえこ・橋本じゅん・河原雅彦・伊達暁・佐田真由美・こぐれ 修・円城寺あや・佐藤アツヒロ 他出演 エビは海老ではなく、父の尊称。古来の父権の象徴であり、絶対権力を指す。韓国の戯曲による、日本初公演の実験劇場である。父権大王の悲劇がテーマ。「オイディプス王」の如きギリシャ悲劇であったり、「リア王」の如きシェイクスピア劇が組み込まれた壮大な叙事詩である。韓国の古代神話に基づいたストーリー。
女児しか生まれぬ王が七人目に生まれた女児を失意の果て捨ててしまうが、その後死期を迎え、死神がやって来る。しかし王位を継ぐ男子が生まれるまでは死ねないと、死神に告げる。死神は王の希望を受け入れるが、肩替え条件として、毎日罪の無い民を二乗しながら殺し続ける事と、男子誕生の方法について捨てた女児を探し、その女児が男子を産むのだという、怖い話である。
エビ大王の長台詞が芝居を引っ張っていく。筧 利夫の熱い演技が出色であるが、出演者皆、台詞を噛む者も無く、好演している。舞台転換も装置に頼らず、人を大道具にする、さながら京劇風の演出もあり、演じ手の技量に委ねられる舞台構成であった。観客はその緊張について行けなくなって、凝視することが難しい場面もあったが、さすがに荒事aragotoを本分とする演劇集団である。観劇後はすっかり消耗してしまったが、決して悪い感覚ではなかった。不思議な充実感に包まれ、又追いかけたくなる演劇集団であった。
韓国の民族楽器の響きも深く心に入って来る。音響は、我が知り合いの山本能久氏。つかこうへい氏との長きセッションで磨きぬかれた感性の人である。この人の奥様がわが占術の同好のメンバーである。そんな関係性で観劇が叶ったのだが、楽しい一日であった。
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人生の希望、目標がないと、運気を操る想念体が作動しない。
どう在りたい、どうなりたい、どう生きたいという思いがあって、人は日々の生活の中で、自分自身を創っていくのである。希望や目標を持ち、その成就を願って思考や行動の流れを模索する。失敗や挫折を重ねながらも、知恵や技術を磨いていくのである。そうして、人生の充実を果たしていくのである。
もし、そんなビジョンが無かったとしたら、ただ在るがままに生きたとしたらどうなるか? 置かれた状況の他動的な因子によって、さながら操り人形のように運命の迷妄の霧の中を彷徨いながら、あてどの無い旅をする事になるのである。
「思えば、あの時自分の志しを放棄してからです。私の境遇は何もかもチグハグになってとりとめが無く、流されっぱなしの人生になってしまいました」 今日いらしたクライアントの独白である。
「本当は生きたい道があった。なりたい職業もあった。でもあの時、何もかもが嫌になって全ての希望を捨ててしまった。全てを心の中に封印して、ただその日その日を繋ぐためだけに生きてきた」
およそ三十年の長きにわたって、その後の人生は不運続きであったという。動いた場所も多方面であったのだが、その方位を辿ってみたら、いずれも五黄殺と暗剣殺の往ったり来たりであったという。方位の吉凶が全てではない。しかし、この人の無作為な人生の選択がこんな方位取りに終始していたのである。
仕事も対人関係も耐え難いほどにしんどいものであったという。自分の心もすっかり冷え切って幾度も自死を考えたらしい。もうどうにもならない状況で、住まいも追い出される究極の場面となって、本当の自己対話をしたそうである。自分が何をしたかったのかを真剣に自問自答したのだと言う。
封印を解かずとも、実は、したい事はたえず胸中に巡っていたのである。その希望を再び持とうと決心したのだと言う。絶対にこのままでは死にたくない! 必ず思いを遂げる決意をしたそうである。
それから、何が起きたか? 丸裸同然の身の上だったのだが、金策も叶い、家の引越しが出来たのである。しかも、方位は五黄殺でもなく、暗剣殺でもない。全くの傷の無い方位に移転が出来たのである。
希望を再び胸に描いた瞬間から、運命の霧が晴れたのである。現在は自暴自棄にもならず、日々の暮らしを楽しみつつ、自分の描いた希望の絵を達成すべく精進しているのだと言う。
運命の女神がいるならば、きっとこの人の希望に微笑みかけたに違いない。志しを持つ。持ったら捨ててはいけない。たとえその志しが変化しようとも、生きる糧こそは希望の光なのである。
運気を操る想念体こそは、希望の心が紡ぎだすのである。
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西岸良平の漫画でおなじみの「三丁目の夕日」が映画になった。
堤真一・薬師丸ひろ子・吉岡秀隆・小雪 他
昭和33年の東京が舞台。あの日の情景が細密なCGを使って再現され、懐かしい我が少年時代の風景が蘇り、画面に釘付けになる。私が11歳の時である。何もかもが慣れ親しんだ場面。ラジオもテレビも、扇風機も。ブンブンいう扇風機めがけて「あー、うー」と叫ぶシーンは、自分も何度やったか知れない子供の生態である。氷の冷蔵庫から、電気の冷蔵庫に代わる所も全く同じ。中を覗いては、冷気に感動したものである。テレビは近所の風呂屋でプロレス中継に熱狂したものである。
過去の思い出が脳裏に浮かび、様々な場面が記憶から呼び覚まされ、時空が逆旋する。いつしか画面の中の少年に自分を投影して、込みあがる思いに胸が熱くなってしまい涙がとまらなくしまった。みんなが貧しかった時代、しかし、心は今よりずっと豊かだった時代だったと思う。
話はお馴染みの人情物で、泣かすために作られた作品で、何度も泣いてしまったのだが、私には心の原風景とあいまって、感動の叙情作品となってしまった。同世代人には是非見てほしい映画である。
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夢を見てみよう
夢を忘れたら、潤いもなく 乾いた心の中にすきま風が吹く 衣を剥ぎ取られたように 寒さが身にしみるだけ・・・ 思い出してみよう 自分が一番輝いていた日のことを あの日、心を占めていた想いを その胸にもう一度蘇らせたら それが夢いっぱいに膨らんでいたことを 思い出してみよう
惨めで切ない思いにうつむいて 後姿に影を宿すのは 上手く運ばぬ春秋ではなく 夢を失ったからだということを あなたはとうに知っている筈だから・・・
夢を見てみよう 心の印画紙にしっかり描いてみよう 嵐の風雨にさらされても 決して消えることのない 鮮やかな光彩を放つ写し絵を
あなたらしい夢を
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かつて想っていたこと 願っていたこと 過ぎ去る時の中で それらが風化して ポロポロとはげ落ちて しまったようで 悲しいのです
次々に変容する意識が あの日見ていた景色を 迷妄の霧に包み込んでしまう
あの日何を見たのだろう 何を想ったのだろう 回帰する心の中で 何かを模索する自分
手がかりを失ったまま 想念は宙を彷徨う 記憶の糸をたぐっても 何も見えはしない
問いかける声は 虚空に放たれ いつしか吸い込まれてしまう
そして私は仕方なく 鏡を見つめてみる
今日という日を写してみたら 何かが解るかも 知れないから・・・ 何かが見えるかも 知れないから・・・
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運勢はたびたび循環するのに、変わらず停止状態。
運の良いとき悪いとき。季節の巡りと同じく天は等しく人々に運気循環を与えている。その流れをどう捕まえるかが人生の分かれ道である。 運そのものは自己の心象の投影なのだが、気の流れの強弱こそが運勢というものを形作るのである。
「愛情運がさっぱり無かったんでしょうか? 本当に長いこと、ちっとももてなかったし、相手にされなかったんです」悲しげにうなだれる女性がいる。もうかれこれ二十年、男運が無かったとも言う。
何が彼女の男運を遮っているのか? 「求めているのに気づいて貰えない。こんなにも辛くて寂しいのに」
そう告げながらも、まるで渇望の気配が伝わってこない。諦めているからか、或いは、愛情を手に入れる方法が解らないからなのか。 究極、人生は自らが創っていくものという、初歩的な運命概念が欠落しているだけの話である。
愛情対象を求めるときに、その成就を想定しながら、思案を巡らすのは、当たり前のことなのだが、この人は、あるがままの自分を受け入れ引っ張ってくれる人間の出現を、ただ待っているのである。完全な受身の態勢である。恋が上手い下手などというレベルじゃなく、男女の対座するドラマがどう作られていくのかについて、思考が働かないのである。経験の有る無しに関係なく、自己想定内であれこれ想像をしながら、恋愛状況を模索するのが、普通の事であるのを知らないのである。 この女性、容貌は、実に愛らしく顔立ちも美形の人なのに・・・ 恋もしかり、仕事もしかり、結婚、事業、人間関係、健康、その他もろもろ、身に起きる人生のあらゆる場面は、自分の思考と行動の写し絵として顕現するのである。
どう生きたい、どうなりたい、どんな幸せが欲しい、どんな人生にしたい。まずは、自分の意向を定める事なのである。意向の無い人に、関わる人間はいない。関わりようがないからである。
意向が定まれば、次に自分の色を創る。その色をどんどん濃くしていく。あるいは、色合いを工夫して、色とりどりの光彩を放つようにする事である。そして他者に向ける波動を強くする。放った分だけ写し返される筈である。そして動く事が大事。「吉凶動より生ずる」からである。動けば人生は静止画像から、見事な立体画像となってさらなるドラマを創るのである。
運は向こうからはやって来ない。自前で創るものである。男が寄ってくる、いい女になって、いい女を演じるのである。自分に合ったいい女作りに精を出すところから運気も発揚してくるのである。今日やって来た彼女!このブログを是非読んで下さい。
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年末を迎えました
今年も残りわずか クリスマスのイルミネーションが街を飾る 冷気が増し空気が澄み渡る 夜の街はクリスマスメロディーが流れ 人の動きも速い ひと際にぎやかであればあるほど 大気は静寂に包まれる。そんな情景 季節は陰の極
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J-TRAP ワンマンライブ 麻布十番・Warehouse
ダンス&ダブルダッチ(縄跳び曲芸)の最高峰メンバーによる、超のりのりのパフォーマンスイベント。歌あり小芝居もありで、楽しいひと時を過ごす。メンバー六人の内三名が我が相談室に見えており、もはや、身内の感覚で、はらはらドキドキしたりの観劇だったが、中身は濃く、すっかり魅了される舞台であった。テレビ出演も今後さらに増える生え抜きのパフォーマンス集団なので、乞うご期待である。
詳しくは、ホームページをご覧下さい。 http://www.j-trap.com
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時の流れは速きもの 二十六年前に名づけをした当時赤ん坊だった男性が赤ん坊を連れてやって来ました。今年の四月に誕生、この子の名づけもしたのです。健やかに育って、社会人になり、結婚、そして父親になった。大きなトラブルも無く無事生きてきた事を感謝されました。きっとつけて貰った名前がよいのだと。そして生まれた子も本当に元気で愛らしい男の子です。思えば長いこと、この仕事をしてきたものです。親子二代の命名ですから。感慨深い一日でした。
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心と体は別なのか?
まったく先の無い、刹那的な恋愛に打ち込む女性がいる。相手の心を求めている訳でもなく、ただ、温もりだけが欲しいのだという。必ずやってくる別れも覚悟して、今が、楽しければいいといった風情である。自分ひとりを可愛がってくれているのじゃない。他にも愛情対象が居て、その隙間で関わってくるようである。でもこのひと月あまりに十回も愛情交換があったという。しかし、自分と会ってないときに他の女性を抱いている男なのだという。
こんな不毛な状況でも、相手が暖めてくれる、その瞬間がかすかに満たされた思いになるらしい。本当に好きな男とは、長いこと会えずに居る。だから、今の付き合い方で自分が傷つく事もないらしい。
何がなんだか訳が解らない。体が交われば心も又、反応するはずである。愛が無くても抱き合えるというが、そこには、情も絡むし、執着も生まれるはずである。知らない間に自分の心が傷つき病んでいく事を自覚できない人なのだが、すでに、すっかり傷だらけになっているからこそ、こんな恋愛に身を投じるのであろう。
相手の男も情緒障害児童のごとくである。性欲だけで関わるのじゃないはずである。この男も又、温もり渇望の人間なのだろう。気が合うとか、体が合うとか、互いに勝手な理屈をつけて、今だけ楽しむか!などと意気投合しているのだが、別れがやってきて、その時はアッケラカンとさよならするのだろうか?
投げやりな人生。投げやりな愛情ドラマ。不毛の青春である。 だが、相談にやって来る以上、全くの無自覚ではない。当然ながら、私としては精一杯の苦言を呈することになる。かすかな救いは、彼女がその状況を告げる覚悟をしてくれた事である。
どう生きるのか? 人生に何を求めるのか? 闇雲に行き当たりばったりの時の過ごし方をして、はたと我に帰ったのだろう。そんな瞬間の出会いだが、つい親心になって、叱り付けてしまったのである。
本当の出会いはいつなのか? 食い下がるように問いかけてくる。 でもそれまでは、こんな生き方で良いのだろうか? 自分を大切にする事の意味がまだ解っていないのである。本当の出会いがあるまでは、中途半端な恋なんかしてはいけないのだが、人生で怖いものは、究極、寂しさなのである。
何が寂しくてこんな馬鹿な事をするんだというが、ただ寂しくてやってしまう事がほとんどなのである。寂しくならないために、自分をしっかり創っていかなければならない事を告げて相談を終えたのである。
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