いにしえ人の思い残す都
先週は京都の古都を散策しました。 大徳寺・東福寺・清水寺。そして保津川の渓流下り。京都国立博物館にて、・最澄と天台の国宝展。
紅葉はまだほんの一割といったところ。観光シーズン一歩手前で、静かな寺巡りとなりました。石庭も人の気配無く独占でき、しばし瞑想の境地。歴史の古い街ゆえ、いたる所でいにしえ人の残留思念らしきものを満喫しました。建造物の荘厳さも圧倒するものがあり、悠久の大河を感じさせる佇まいでした。清水寺では、西に沈む太陽を参拝。西の山々に沈みゆく陽は、西方浄土にかえる陽という事で願掛けをすると叶う言い伝えがあるそうで、ここは、気合いを込めて、我が想念の浄化と、ひらめき、直感のレベルアップを祈願しました。自らの運を開く力と、関わる人々に少しでも生きる知恵が授かりますようにと願いました。 幼少期から、何度か訪れている京都ですが、実年齢とともに、味わう境地がまるで違うものだと、実感しました。すべては、観る者の想念によるのです。命の洗濯になりました。
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圧迫からの解放
迫害と思える程の圧迫情況から解放されるときに、晴れて自由の身と思う心よりも、人はある種、寂寞感に近い切ない心象になるものである。開放感よりもむしろ何処に身を置いていいのかで、不安な神経回路が発動し、心が混乱を来す事になる。その圧迫が永ければなおのことである。親子関係、或いは夫婦の関係などにおいて、支配していた人間の老いや凋落で、圧迫情況が減殺されゆく中で、支配下に置かれた人が陥るパニックに近い感覚である。日常的な苦難の様が、何処かで耐える事で自我を支えて来た歴史に終止符を打つ事になる。そして今後の人生の基本軸を造り替える作業に入るのだが、その時、逆に恐れおののいてしまうのである。
人は何によって、人生を組み立てて生きるのか? 苦難を背負い、闘いながら生きる人にとって、苦難こそが生きる糧になっているのである。苦難が去ったときは、自分の人生も終止符になってしまう事がある。本日は、そんな症例のパニック症候群のご婦人と面談したのである。苦難の解放と同時に、新たな人生の方向と新たな生き甲斐への思考と行動の基本軸を創られるようお話をしたのである。
人を生かす道は、幸せ感ばかりではない。憎悪や、反発や、嫉妬や忍従といった、悪想念が果たす事も多いのである。神はそんな人生を与えて人を試すのだが、心に宿す想念こそが幸不幸の分かれ道である。不幸であるより、幸せに生きていく事が良いに決まっているが、不幸に慣れきった人にとっては、その幸せ造りが恐怖観念に化ける悲しい現実があるのである。達成領域に入った人のあっけない死を散見するのは、こんな心の様を写し出す事に他ならない。人間とは因果な生き物である。もっとしたたかに幸せを満喫する心を創っていくべしである。
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神の本体
形ある宇宙の前に混沌とした宇宙の「気」があった。カオスというものである。ただひとつの実在としての宇宙霊と名付けられるものである。人の心や観念の所産として、この宇宙神霊は、御霊分けを始める。天地自然の神として、太陽神、月神、そして、山神、海神、木神、火神、土神、金神、水神、から、さらに、土俗的に、民族的に神々が分化多様化してこの地上に降霊を始めるのである。
宇宙神霊は、現象界の一切の造物主である。その理を説く者として釈迦があり、マホメッドがあり、キリストがある。聖なる者として、宇宙の理を説く者はそのほか数限りなく登場するこことなる。いつしか、聖者達は神格が与えられ、様々な宗教となって巷に溢れかえる歴史を作るのである。日本でも古代神道があり、又、東西の交流から、あらゆる神々が伝来し、宗教氾濫の世界が出現するのである。神々が殆ど人の形となって現れるのは、何故か? それは、人があらゆるものに対して擬人化する癖をもつため、形のない宇宙神霊をいつしか人格化された神として崇拝の対象としてゆくのである。稀に動物神もあるが、神々は人の形をしているものが圧倒的に多いのである。受け入れやすく理解し易いから、思考回路に人型をはめるのである。
神への帰依、信仰のプロセスは、究極、人智を越えた真理への憧憬と共に、弱き人々の神への祈願という、依存的な心から、異常な発展を果たすのである。又、政治が絡めばなお一層、為政者は宗教的理念に基づいて人心を統合しうる絶対権力となって、神の代理としての生殺与奪の権を行使する所となる。
神を感じる事。これは、人の観念が捉える想念世界での出来事である。その想念は与えられた教育や、学習体験の情報により、脳に蓄積された概念を思考する事によって果たされる。人が思考する事によってのみ、霊魂や神霊の活動が表現され、体感されるのである。宇宙の波動も又、心の働く場である脳髄で受け入れられ、その後に、神経系に送られそれが、肉体細胞に伝えられ身体活動となっていく。神とは、想念の所産であり、その実在感もまた、観念世界の出来事である。
人の思考は人生の一切を創る。神との合一感も又、思考以外に無い。 霊能者とは、たぐい稀な思考観念の持ち主である。異相世界と現実世界の狭間をつなぎ見事にシンクロさせる達人である。しかし、これが真の現実として実証しうる事は不可能であり、信じるか信じないかの世界に帰着するのである。
神を感じ、神の心を持つ事は尊い。神の心が自らの想念世界に入ることで大きな自分が創られていく事が意味のある事である。しかし人は決して神にはなれないし、神から運を与えられる事も決して無い。人生の現実は自分自身の力で開いていくしかないのである。神との交流、神と対座する自分の心を見つめる事である。
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神仏が与える人生の糧
神仏に帰依するとはいかなる事か? 神仏を身近に置き、信仰生活にある者が、神仏とまるで無縁の者と比べて人生の幸せの糧を得る量が勝っていないのは何故か?
本当の信仰世界を持つ人は、神仏と心を交流させ、真理を求め、人生の意味を悟ろうと努める。幸せの糧など求めもせず、内なる悟りと安心立命の境地こそを求めるものである。信仰は祈願とは本来無縁である。祈り願う事は、神仏を崇め尊ぶ心ではなく、ただの依存である。
信仰生活の中身が問題になる。神仏に帰依する事で現世利益が得られる事を熱望する信心。これが人を弱くさせ、幸せの糧をかえって損ずる事に帰着するのだと思われる。
人生はすべて現実である。この現実を創っているのは、紛れもない自分自身である。身に起きる現象はすべて自分の心の投影であり、自らの行動の結果である。神仏との交流とは、一体何を意味するのか?
神や仏というものは、究極、森羅万象、天地自然を包括する宇宙の真理を司る絶対存在である。人が真理を問うとき、天地自然の神、さらにその太源の宇宙神霊は、人の心を通して、その正しい思索の方向付けをしてくれるのである。善に向かい正しきに向かう波動や思念の中心座標をもたらしてくれるのである。その逆に人が悪を思えば宇宙神霊は、その悪想念にしたがって、その通りの最悪の情況を人生に体現させ得るのである。宇宙の持つ創造の力は、その人の描く思念、観念の有り様にしたがって善悪吉凶の両極を現出させるのである。
真の信仰とは、霊性に目覚め、内なる神と対座して、自らの実存領域を達成することである。そうしてこそ充実の神性が得られ、心が悟りに向かうものであろう。外なる神の恩恵に与る依存からは、不安や怖れ、迷い惑いから抜け出すことが出来ない。
自分の人生は自分で創る。自分で自分を救い上げていく、導いていく姿勢が無ければ、神仏は何も与えてはくれないのである。人生の現実は現実の力でしか解決できないのである。
病や苦難、どうにもならない身の上にあるとき、逃げず、隠れず、この人生の事実に挑戦して、その苦境を乗り越えていく心を創る事こそが、宇宙神霊との真の交流を成す道筋である。助けて貰うのではない。救って貰うのではない。断じて自分の苦境は自分が救うのである。 神や仏は祈る必要はない。自らの内に神を宿す心を持ったときに、運命を開く力が発揮されるのである。自らの苦しみと闘う実践的な知恵と行動原理が導かれるのである。
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嘘と現実が交差する人
変形自己愛の中で、案外知らずにこんな心情になっている人は多いものである。少し極端なケースがあったので紹介する。
かなり以前の話である。相談者は女性である。自分はある国の王室の血が入ったクォーターであると言う。確かに異国の匂いのするご婦人である。相談内容は、政府機関の重要な接待役を仰せつかったが、果たしてその仕事を受けて良いものかどうか? である。これまで幾度も国際親善のため、とくにその国と日本の外交事業に関わってきたと言うのである。問われるままに占ってみるが、とてもそんな気配はなく、情況が見えてこない。
「残念ながら、可能性はあまりないですね。きっと流れる話じゃないですか」と答えるしかない。すると、すぐにも了解して、次の質問に移行するのである。 「解りました。じゃあ、ついこの間、政府要人(かなりの重要人物)に会って依頼された件ですが…」と、べつの外交接待の話となる。当方はひとつひとつ否定していくが、次々に話題を変えながらスケールの大きな展開となっていくのである。いつしか事業を立ち上げる話まで出てくるのである。最初は面白がって話を聞いていたのだが、嘘話の連続ですっかり閉口したものである。この女性とは、一度や二度ではなく、数え切れないほどの相談があったのだが、口裏を合わすにも限界があり、 質問事項を全否定して、縁がきれてしまったのである。
こんな極端な場合には、当方も簡単に読み取りができるが、日常の相談の中にも、誇大自己の妄想概念で話を繰り広げる人がいるのも確かである。微妙に観念トリップの様相となり、幻想から、話を組立てて、まことしやかに質問するのである。本人に悪意はまるでなく、騙している風情もないので、うっかりすると、そんな虚構の相談に真剣に対応してしまうのである。悲しい嘘の自己実現のドラマである。
占いは未来の指標を立てるもの故に、虚構世界の是非を問う事で仮想現実の奇妙な達成領域が得られるのかも知れない。占者は問われるままに易を立てたり、カードを繰ったり、或いは命理で分析したり、クライアントの要求事項を満たしていくのである。そんな占いフリークも数多く存在するものと思われる。切ない病理現象である。
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自己愛から抜け出せない人の恋愛
相手を愛しているつもりでも、実際は愛を演じる自分自身にしか興味が無い人がいる。愛に生きる自分が可愛くて仕方のない人である。
ひたむきに尽くし続ける事が愛であると思い、執拗に何から何まで相手本位に行動する人がいる。寝ることも惜しんで相手に愛の限りを尽くし与える。まるで自分自身を放棄しているような凄まじさである。こんな人が相手からの拒絶を受ける確率は、大変高いものである。そんな人のお話である。
「どうして彼はこのひたむきな私の愛がわからないのでしょうか?」 などと、声を詰まらせる。こんな完璧な愛は無いのにと、言わんばかりである。こんな時は、「精一杯つくしたよね。相手を愛する自分を誇らしく思っていたのにね」と言ってみる。 「本当ですよ。純粋な愛だと思います」と胸を張る。
「相手を思い、尽くしている時間のありったけが、幸せだったんだよね。愛や恋に身を焦がし自分を無くす事が悦びだったんですよね?」 「そうです。楽しかったし、とても充実の時間でした」
「相手の気持ちはどう考えたのかな? 全て喜んで貰えると思ったのかな?」「……あまり考えてませんでした」
この女性は、献身型の愛情モデルに固着する自己愛者なのである。相手に徹底的に尽くし我を忘れる空間に身を置く事で、自分を愛しく誇らしく思う屈折心情の持ち主である。
意地悪な質問をしてみる。「それで、この彼で何人目?」 「…三人目かな。…でも、なんでそんな事聞くんですか?」 幼児体験や、何かのトラウマから、きているのだが、紛れもなく変形自己愛の恋愛シンドロームである。
いまだ他者を愛するレベルに到達していない愛情観であり、しばらくはきちんとした自己対話を要する情況である。この人にとっては、相手の思いや実体情況について、いかほどの感慨も無いのである。ただ自分のありったけの情愛を尽くすのみが重要事項なのである。献身的な愛に生きている自分が大好きなのである。相手を好きなのでは決してないところが何度も繰り返す恋愛ドラマが物語っている。
「この私の愛をキチンと認めて答えてくれる人って、きっと又、現れますよね?」愛の天使のつもりだが、残念ながらこの人は、今の段階では誰も愛せないし、誰からも愛されないだろう。
変形自己愛については、まだ症例があり、又次回。
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代理恋愛
逢えない恋人を想い、又相手の心情を探る人が占いに助けを求める。 「今、相手は何処に居る? 何をしている?」から始まって、自分への思いや感情の様を問いかけてくる。
離れている情況は辛く、身を切られるような思いとなって、思慕恋慕の情がつのってくる。離れた原因が心離れであるときには、なお一層深刻であり、食い入るように占断を見つめる。
それぞれの命式を調べ、運気や相性を検分し、成り行きは易占で診断する事になる。そうしながら、次第に相手の心理構造の推理へと移行していく。感情転移というものか、語り合っていくに従い、いつしか思考が相手の感情領域まで入り込む事となり、相手の言葉が転移するような場面を迎える事になる。
さながら相手がこの場所に居るような錯覚を与えるほどに、なりきってしまう事もある。「口寄せ」といった、霊的現象に近い世界である。 心を読み、感情を掴まえた瞬間に言霊が走るといった感じである。
ある種、逢いたい願望が肥大して、かすかな気配でも感じ取ろうとする相談者の心理投影でもあるが、いつしか会見の実感を体感するレベルに到達してしまうと、まさに代理恋愛の情況が出来ているのである。
相手に逢いたい、どうしても。でも逢えない。そんな時に私と話す事で恋愛情況の疑似体験を叶えてしまう人が居るのである。
占術家達の内輪話では、この事例が数多く語られる。電話相談もしかりである。占い依存に向かうのは、こんなすり替えられたバーチャルリアりティーが体感出来るからであろう。危険な疑似体験である。
生き霊転移の現象を見る場合には。一端相談を中止すべきである。錯覚が、現実感を呼ぶ時は、すでに互いが病理現象の渦中に居るからである。しきり直しが必要である。
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心の世界で作り上げた濃密な恋
三十才の女性から相性診断を求められたが、さっぱり接点も無い二人なので、返答に窮してしまう事があった。質問も要領を得ず、何を知りたいのかもよく解らない。本人はそれでも、相手の熱い思いを語り、いかに自分が愛されているかを強調する。いつから始まり、現在どんなつき合いをしているのかを尋ねると、電話で毎日のように話をして、週に三回は逢っているという。逢う場所は決まって彼女の部屋だという。
相手の男性は職場の上司であり、二人は不倫関係である。これからどうしたいのか? どんな展望を求めているのか? あれこれ問い正してみるのだが、一向に話の辻褄が合わない。知りたいのは相手の実のある愛情の確認のみである。
「本当に私を愛してくれてますよね」 こんな場合は、とりあえず易を立ててみるのだが、結果はやはり、相手の思いもなく、恋愛関係を暗示する気配もないのである。
「いやー、彼の気持ちが、見えないんですが… というよりも、全然恋のサインが無いんだけど」と答えるしかない。 「いやだ。彼、照れてるんじゃないですか? 本当の心を隠してるんでしょう。だから気配をみせないんですよ」とほくそ笑む。
女性は相手の生活や日々の仕事場での姿を語り始める。かなりの実情に精通している。日々語っていなければ解らない内容である。そのうち、愛情交換の生々しい話まで披露し始める。かなりの実体感を感じさせる内容である。
占いの概念からは、外れた現象ばかりを告げるので、私も混迷の極地である。しかし、話の前提が不倫愛であり、未来の無い不毛な恋愛であることに違いはなく、自分の人生を大事にするようにと、指導して相談を終えたのである。
五年ほど経過して、再びこの女性から、相談を受ける機会があった。 「あの時は、大変失礼しました。先生は全部解ってたんですよね。あの恋の話は嘘だって事」
やはり、妄想の恋であった。本人もその事実に気付くのに、時を要したそうである。完全に確認できたのは、新たな出会いがあって、実際の愛情ドラマを手に入れてからだと言う。
生きる事は思う事、感じる事、かつての彼女には、妄想であれ、愛され体験が必要だったのだろう。それほどに心が飢えていたのだろう。悲しい自己保全の道筋である。
かなり、昔の出来事を紹介しましたが、これに類似した怪しげな相談が結構多いことも告げておきます。
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間違った過去の記憶シンドローム 人生の真ん中あたりで、ふと過去を振り返る事がある。自分史の始まりである。様々な記憶をたぐり寄せ、どう生きてきたかを反芻する。心の軌跡、生きた足跡、錯綜する記憶の中から自分を見つける作業をし始めるのである。運勢論的には、穴に入った低迷期である。欝期ともなるが、より良く自分と対座して答えを出せれば明日に流れる源流となる。
しかし、この自分史を語る時に、屈折の人生を自覚する人が数多いのも事実である。「どうしてこんな生き方になってしまったのか?」 「いつもこんな風にしか生きられない、こんな風にしかできない」 実人生の行き詰まり、思い通りにいかない情況を認識した時に、いつしか意識退行の記憶彷徨に向かい、その原因を過去の屈折した愛情環境のせいにしてしまう人がいるのである。
ほぼ中年期の女性に見られる特徴である。とりわけ家庭がテーマの主婦層が圧倒的に多いものである。夫や子供との関係性に存在領域を委ねる人は、私的愛情空間こそが第一の優先事項である。しかし、自らの育児が一段落したり、子供の側から自立的な対応を受けた時に、喜ぶと同時に欠落感や寂寞感を覚える。それを夫に訴えるが、夫も仕事に専念してまるで余裕が無い。そんな情況で心の穴に入っていくのである。
「どうしてこんなに空しいのか?どうして心がみたされないのか?」 充実した幸せな環境にいるはずなのに、何だか淋しい…。
この心の様を、いつしか過去の探索から追求する所となって、 「そういえば、私は小さい頃、母親から愛されなかった。他の兄弟ばかりが可愛がられ、自分だけのけ者にされた」「親の過度の期待に押しつぶされた」「親から絶えず監視され叱られ続けた」などなど、幼児体験の屈折、心理的歪みに原因を求め、いつしかトラウマ実感にすり替えていくのである。
悲劇的な生育環境、親への愛情飢餓のドラマはこうして捏造されていくのである。相談現場では、親との愛情交換に失敗した過去の記憶について、当てずっぽうに指摘して外れる事の方が少ない。誰しもが抱くトラウマバージョンである。中年婦人だけに限らない。男性も同様である。
今淋しい事と、過去は何の関係もない。過去の愛情トラウマが人間関係の不和反目に関わっているという解釈も、実は、得手勝手な責任転嫁であることを皆、あえて追求しない。幼児体験の実体が凄まじい情況の人も勿論いるが、やはり圧倒的少数である。それなのに、愛情トラウマは至る所に散見する。簡単に人生屈折の解釈や理由付けの道具に出来るからである。人間は実はそれほどヤワではない。ただ、甘えの構造がそうさせているだけなのである。
自分史は創るものであるが、トラウマ混入の悲劇編だけは、是非回避すべきものである。誤った記憶操作に陥らぬ事である。ネガティブな過去から、明るい未来は絶対に創れないのである。
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秋風が吹く頃 夏に動いた結果がそろそろ出てくる季節。一年の出来事の総括の時を迎えて、振り返ってみたり、又新たな展望を模索する時候です。相談も少ししんみりしたりする時があります。ぼちぼち我がブログも再開するつもりです。質問意見などありましたら是非コメント下さい。
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傷害のある恋ゆえに燃える
気がついたら不倫だったという恋愛パターンは数限りなくある。抜き差しならない情況で苦しむ人は多い。だが、最初から不倫と知って飛び込んでいく人もいる。これまで、不倫しか出来ない愛情屈折の人にも数多く出会っている。不倫シンドロームなる世界があるのである。
不倫という状況設定に身をやつす事に人生を賭け、悦びを感じる人。悦びと言えるのかどうか、むしろ切り刻まれるような愛情葛藤が自虐的な悦楽にすり替わっているといったほうが良いかも知れない。本人も辛そうにその愛情関係を告げるのだが、心底で辛いかどうか、嫉妬が媚薬となって激しく燃える性愛の火炎地獄を満喫している風情が見え隠れするのである。
人のものを盗りたい、略奪したいという邪悪な想念を持つ人もある。 何度か、似たケースがあるのだが、さんざん、相手を手に入れたくて、ありとあらゆる作戦行動を企て、いよいよ略奪達成の期を迎えた人が、晴れて成就のあかつきに、あっさりとその恋を捨ててしまうのである。願いが叶った瞬間にもはや、目的喪失のドラマになってしまうのである。
不倫相談では、当事者の場合もあれば、自分の配偶者が盗られる場合もあり、内容も千差万別なのだが、こんな不倫愛好の屈折心情の絡んだ場面も数多いのが現実である。こうした心情が見えた時には、不倫解消の展開は案外早いものである。あっさりと、成就を見せて完結のドラマに移行してゆくのである。相談者が当事者の場合には、未来予想の占断をして、成就を告げるのである。最初は喜びつつも次第に顔色が曇ってくる人がある。紛れもなく不倫シンドロームの患者である。次回の来訪の時には、終わっている確率が高いものである。
逆の場合も、思い切って離婚手続きを取らせて見るか、或いは、そのように思わせて見る事で終息する事も多い。不倫をある種、ゲームにしているのである。いずれも悲しい性(さが)のなせる技だが、まさに人生いろいろである。
気がつけば、不倫だった。相手に騙された場合もある。しかし相手が騙すつもりじゃなく、いつしか結びついてしまった場合もある。こんな場合は因縁もあって、一番ややこしい情況となる。成就しても苦しいし、かといって、やめる訳にもいかない。愛情葛藤が延々と続くのである。思い通りに人生が営まれる事のほうが少ないのが運命の現実であり、愛の苦悩が相談テーマの第一位に上がるのも事実である。又次回。
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観相学大家・水野南北居士による (康秀編)
寝相について…寝相は心の正直さや気力の強弱を表す
寝入った時に笑顔に見える人は、心に悪意が無い。和気があって人と親しみ、悩みが浅く深く落ち込む事がない。人生を前向きに考える人で出世の運も一度だけではない。
寝入った時にどことなく哀れに見える人は、根気も弱く人生を闘う気持ちに欠けた人で、短命となりやすい。寝入った時に淋しく見えるひとも同様である。貧相の一種である。
寝入った姿に陽気が立ちこめる人は、現在好運の時であり、心に気力が充満している。情熱を持って事に当たり成果を上げる時である。
寝入っていて、身を乗り出すようになる人は、大いに出世する。人生に対して前向きであり、負けを怖れない。性格も行動的である。逆に、潜り込むように寝る人はあまり出世はせず、人生に対して後ろ向きであり、向上心に欠ける、よく言えば慎重な人である。
寝入った時に憂い顔に見える人は、人生の苦労に負ける人であり、出世もおぼつかない。又苦労を呼び込む不運の境涯となる。貧相である。
縮こまって寝入る人は、体力気力に欠け、根気もなく人生の勝負にいつも負ける人である。貧相であり衰弱相である。
のびのびと寝入る人は、身体も丈夫であり、心魂も穏やかで相応の達成を手に入れる命運である。貴相でなくとも福相である。
横向きに寝て頭を俯ける人は、自ずから気力がこもり、根気強く身体も丈夫で運勢も強い。
寝入った時に仰向く人は、自然に気力が漏れるので根気が続かず成功しても運気が長続きしない。
口を閉じて寝入る人は、自ずから気力を保ち根気強く、分相応の福運に恵まれる。
口を開いて寝入る人は、気力が漏れるので運気が弱いと見るが、気力の質によって吉凶が分かれるので幸不幸は断定出来ない。しかし胆力には欠ける傾向となる。
寝入った時、常に姿が悪い人でも、気力のこもる時は寝相そのものに勢いがある。勢いこそが運気の見所である。
寝入った時、端正な表情となり、寝姿の綺麗な人は、人からの敬愛を受け、相応の達成を遂げる人である。貴相である。威厳を伴えばかなりの衆目を享受する命運である。
寝言を絶えず繰り返す人は、悩みに取り憑かれた人であり、強迫観念や欲求不満の日々を送る人である。他者を怨んだり、他者から恨みを買っている場合もある。
寝入っている時は、無防備であり、おおらかに安心して寝入っている姿が良い相であり、緊張を感じさせる寝方には、問題を抱えた人生の情況を醸すものである。
寝相は意識の届かない場面であり自己管理できないだけに、開運法としての良化作用が期待しにくいが、日常においての態度所作を改める事で寝相も変わってくるものである。
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挫折を怖れてはならない
挫折こそは、夢や希望を持った証拠である。人生に目標設定があってこそ、挫折体験が起こる。挫折した事実から自分の希望や夢の実体が明らかになっていく。何度も何度も繰り返す挫折が強靱な精神力を培う。
達成と挫折は背中合わせにある。夢を持ち続けない限り、成功の時は無く、又、挫折を経験しない成功は根拠の曖昧な自己満足だったり、実体不明の一過性の達成領域でしかなく、真の人生の充実をもたらすものにはならない。 負けを知っての勝ち、弱きを知っての強さが、本物となる。 挫折から人生を暗くする人は、夢の描き方そのものの錯誤を認めない頑迷な心を持っている、或いは自分の無知や能力不足を認識出来ないのである。失敗は成功の母と言うが、失敗と挫折の境界が定かで無いことも多い。夢を持ち続ける人こそが成功者の条件だが、夢をどれだけ吟味分析しうるか、希望を確信にしうるかが、鍵を握っているのである。
何度でも挫折をしてみよう。そのたびに心が強くなる事を知ろう。 知識が増し知恵が深くなる事を知ろう。 しかし同じ挫折を繰り返すのはやめよう。
挫折を怖れてはならない!
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