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鑑定歴40年 面接鑑定専門 本格占い 癒しの隠れ家 四柱推命・断易・気学・風水・手相・他
■■■自分史は創るもの
2005/09/27 Tue未分類
 過去を振り返る

 過去というのは、実は曖昧なものである。記憶を辿り、過去を追想して、こんな事があった、あんな事があったと当時の出来事を振り返るのだが、その時、自分の感慨が重なっているので事実は変容を遂げていくのである。

 この感慨こそが、時代を経るにしたがって変化したため、思い出が変わるというより、思い出への意味づけや解釈が変わっていくのである。

 自分史は、追想するたびに、書き換えられ、造り替えられていくと言っても良い。ハタチで振り返る過去、三十才で思い出す過去、四十、五十に至って追想する過去、そして老境にいたり感慨を込めて辿る過去。

 かつて読んだ本を、何年かして読み返してみると、全く別の読み取りをしている事に気づく筈である。かつて解らなかった事が解っている。かつて感動した事が色あせて見えたり、或いはまるで違う箇所に感動を覚えたりする。自分の心や意識が変われば物事はまるで違った色合いになってくるものである。

 同じように、時代を経ると共に心象世界が変われば、何もかもが違った認識に向かうものである。自分の過去さえも…

 時として、歴史は捏造もされる。感慨以外にも、自分が活きやすくなるために過去を取り替えて都合良く辻褄を合わせていくのである。無作為の作為で、自分にも嘘をついていくのである。何度も繰り返し、捏造を本当の自分史にしてしまうのである。皆、事の大小はあれ、自伝小説を描く作家なのである。この自分史創造の能力こそが、明日を創る原動力にもなってくる。より良い嘘はトラウマすら消し去っていく。自分を愛し高めるための自伝的虚構を、是非お勧めする次第である。

中には、自分史を悲劇的に語って同情を引いたり、マイナス波動の威嚇行動に出たりする異端傾向の人がいるが、未来をわざわざ無惨なものにするアンポンタンである。決してお勧め出来ない話である。

 しっかり辻褄を合わせ、人格も高めて人生もスケールアップするような自分史の脚色は是非行っていって欲しいものである。これは決して嘘にはならないものである。生きる極意の裏技編である。
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■■■本日は新橋演舞場
2005/09/26 Mon未分類
 銀座・くらま会
 
 小唄、一中節、浄瑠璃の会。
 
 毎年の恒例行事。我がお客様が好演されるので、かれこれ十五年の観賞の歴史があります。銀座の商店会のお歴々の伝統芸能の会で、発足八十年以上の格式のある催しであります。中には玄人芸もあって、見応えのある舞台です。
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■■■日曜日は芝居見物
2005/09/26 Mon未分類
 劇団・新感線公演「吉原御免状」 隆 慶一郎原作

 出演… 堤 真一・松雪泰子・古田新太・京野ことみ・藤村俊二 他

 演出…いのうえひでのり  渋谷 青山劇場

 いのうえ歌舞伎。 江戸時代の吉原遊郭を舞台にした裏柳生史劇。

 かなり凝った舞台演出。場面転換が見事。映像的な手法。相当に修練を積んだ構成で役者の動きも緻密な計算が随所に見られる。一言で素晴らしい舞台である。音効、照明、衣装、美術、いずれも高度な布陣であった。とりわけ音効の果たす役割が芝居の成否の鍵を握っているが、完璧であった。

 堤 真一の剣客は、迫力に充ち、かつ美しい。なんと言っても声が良い。長年の修練の成果を感じさせる演技、威厳すら醸している。
 松雪泰子の花魁は、儚げで幽玄で底知れぬ陰極の色香を放ち、見事好演。テレビでは数多く見ているが、出色の演技であった。当たり役というべきである。
 古田新太は、時折滑舌に滑る所があるが、個性豊かで、強烈な実在感を持った役者である。
 藤村俊二は老体で、(役所も老人)途中から疲れが出てしまい、台詞のとちりが激しくなったが、逆に変な味があって、妙に魅了される芝居であった。
 遊郭が舞台ということもあり、異界世界の絢爛玄妙な空間が広がり、夢のまた夢を彷徨う不思議な時間であった。
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■■■自分を知る手がかり
2005/09/23 Fri未分類
 今の自分を知る
 
 現在の本当の自分の姿を知るための有効な方法のひとつ
 「過去の自分と現在の自分を引き合わせてみること」である。

 かつて、こんな場面で自分はどう考えどう対処したのか、その時の感情はどうだったのか? そして今の自分はどんな心象なのだろうか?
 どんな人間も、過去の自分と現在の自分を、冷静に自惚れも自己憐憫も何も無く見つめたなら、本当の自分の姿が浮かび上がって来るものである。そして、今のままでこれからの未来に向かっていって良いのかどうか、それとも良くないのか。もし欠落が見つかったなら、今からもっと自らの進歩向上を図らなければならないことが解ってくるのである。

 年を重ねるにしたがって経験を積んでいくのが人間である。かつてこだわっていた事が、今では平常な心で対応出来て進化のプロセスを自覚出来るのである。怖いものが次第に少なくなっていくのが成長というものである。むしろ怖いものが増えていく人もある。かつて無自覚だったために脳天気で生きた場合には、こんな落とし穴もあるだろう。
 だが、人生を普通にきちんと考え生きて行く人には、恐怖観念は減退していくのが道理である。未だに怖いものだらけならば、充分に心を見つめ、マイナス要因になっているこだわりを吟味しなければならないのである。

 しかし人間というのは、いかに自覚が進み、物事に対する深い理解を開いたとしても、「人生の苦悩」というものから解放される事は出来ない。苦悩から逃れる事が叶わない時に、心は恐怖観念に囚われていくのである。しかし自覚、覚醒を持った人間は、苦悩を学びに変え、心魂の糧にして、明日の自分創りに転化していくのである。苦しく悩むのでなく、大悟のための試練と受け取るのである。

 自分の願う事、(宿願、念願、祈願、心願)というものが、叶う、叶わないという事は、自分の外にあるのではなく、必ずそれは命の中に与えられた心魂の、思念や思考する力にこそ宿っているのである。

 「身に起こる事は心の写し絵」は真理である。人生を彩り操る心の管制を怠ってはならない。揺れ動く心の様を見つめつつ、自分を知り、創っていくことが「生きる」ということであろう。
 
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■■■気づかないうちに閉じこもる心
2005/09/22 Thu未分類
 自己防衛のための心幽閉のドラマ
 
 殻の中に閉じこもって自分の傷をひたすら舐め続ける。さながら猫のように、負け犬のように…
 
 もうこれ以上傷つきたくないから… プライドを壊されたくないから… だから、いつまでも閉じ籠もる。

 頭を抱えてうずくまっているあなた
 どんな自分を守ろうとしているの?
 そうしているうちに、すっかり自分を見失っているじゃない。

 いつまで続けるつもりだろう?
 そうして続けている限り、情況はひとつも変わってこない。
 むしろ傷は深まっていくばかり。
 閉じ籠もり続けている限り、傷が癒されることは決してない。

 傷ついても、血を流しても、前に出て行かなくてはいけない。
 ガラス細工のプライドが粉々に砕けたとしても、又最初から創り直し
 ていけばよい。

 殻を破って飛び出していかない限り、過去の記憶からも傷からも逃
 げられない。

 今を創り、未来の希望を手に入れたいなら、閉じ籠もっていてはいけ
 ない。

 
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■■■観相学入門・その4
2005/09/16 Fri未分類
 占術の大家・故大熊光山翁による{康秀編)

 挙動・飲食の相…食物の食べ方によって、その人の個性が表れる。

 肥満の人は早く食べるのが良く、痩せた人はゆっくり食べるのが良い。飲食の早い人は肥る。よく噛んで食べる人は痩せるものである。
 食をあまり取らないのに肥る体質の人は性質寛大である。逆に痩せているのに食事を多く取る(痩せの大喰い)は粗忽者であり、人望に欠ける人である。

 暖かいご飯を食べず、冷や飯を好んで食べる人は無精者である。

 食事の時に、俗に交り箸、渡り箸といって、色々の物に手を付ける人は、移り気の人で変個性に富む。気が多く何事も最後までやり通す事の出来ない人である。

 食事中に美味い物を出されても旨そうな顔をせず、むしろ思案顔になって、陰気な食べ方をする人がいる。この人は、男女ともに縁遠く、人と和する事ができない。たとえ大家族に生まれても晩年は孤独になる相である。

 左箸の人は、一芸に長ずる人で個性の発達した人であるが、何か性格上に欠点があるため成功が難しいものである。ただ時代的に左利きが疎まれることは少なくなっているので、奇矯な印象を与えることも無く、成功者も多くなっている。やはり独自の持ち味で活躍する人である。

 妊婦が酢の物を好んで食べるのは、お産の時に骨盤を柔らかくするための自然の摂理である。又、酸味は、胎児の肝臓を発達させる力になる。だが、普通の状態で人が急に酢の物を好きになって、度が過ぎる程に食べ続けるときには、運気が衰微する兆候であり、次第に滅亡的な人生に向かうので注意を要する。

 痩せた人で食物に口を持って行くのは、「口、食を追う」と言って、貧相の極地である。見るからにさもしく、貧乏ったらしい印象である。
 茶碗や皿を口に持って行くのが、「食、口を追う」と言って、吉相となる。痩せた人が、遅くゆっくりと緩やかに食するのは、相応の発達を遂げるものである。品性も豊かな印象となる。

 大口を開けながら箸を持って行く人は、軽はずみの人であり粗忽な行動ばかりで決して大成しない。見るからに馬鹿っぽい印象である。

 ネズミのような食べ方の人は、貪欲でさもしい。鳥がついばむような食べ方の人は、病気か餓死する人である。
食べるときに、口が少し開いて、くちゃくちゃと音を立てるのは、下層に甘んじる運命となる。公の場所に出ると恥をかく事となり、狭い世間で生きるしかない人生となる。知識教養を身につけるにしたがって、この癖は直ってくるものである。又、気を付けて癖を矯正すれば、運気も向上してくるものである。
 牛のように落ち着いて物を食べる人は、福運があり、ゆったりと大成する人である。

 ネズミに似ているが、前歯で囓るように食べる人、或いは副食物をいろいろ置く人は、縁の変わる人で変転の多い人生となる。又、間食をする人は胃が悪くなると同時に、運気は乱れ縁が度々変わり落ち着かない人生となる。女性は顕著で大凶である。

 35才前後で、定職も持たず、やたらに暴飲暴食する人は、たとえ一時幸運に恵まれても、次第に運気が衰微して、晩年には孤独貧困の境涯になる。したがって35才頃には食事を定める事が肝要である。定まれば必ず出世するものである。食事の時間、又は量の定まらない者は、失敗を繰り返し変転衰亡の人生となる。又、身分以上の食事を取る人が居るが、これは、没落滅亡の基であり、大凶である。

 上腹がパンパンに膨れるまで食べないと気が済まない人は、決して長寿が望めない事となる。又、たとえ、発達相が沢山備わっていても、人生は大きく発展しないものである。

 食事中にやたらと喋りすぎる人は大凶。運が逃げていく相である。
 又、食事中に怒り出したり、悪言を吐く人はさらに大凶で、破滅的な人生となる。

 寒中なのに、冷たい物を食べて汗をかく人がいる。貧相中の貧相であり、住居も定まらず転がり続ける人生である。

 飲酒した時の相

 直ぐに赤くなる人は割合に好人物である。
 顔に出ない人は容易に本音を見せない人である。
 青白くなる人は、胸の奥にわだかまりがあって陰険な性情を有する。

 少しづつダラダラと永く呑む人は成功する事が少ない。又、はしご酒をする人は、他者の忠告を聞かない粗忽者で、失敗の多い人である。

 大酒のみは、家相では、南欠けの相に住む人である。南欠け(離…火)は火が弱く水(酒)に剋を受けるからである。離は頭であり、剋されて頭脳も犯されるため、酒乱となる。改修すれば、治まってくるものである。

 以上、食べ方にも運気を操るものが数々ある。心して食の管理をすべきであります。
 
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■■■心を病む・質問編
2005/09/13 Tue未分類
 「心を病んだときこそ、自分を知る好機」
 確かにその通りだと思います。ただ、心を病んだ人は自分の心が病んでいるとはなかなか思わない、あるいは思いたくないものなんじゃないでしょうか?

 又、はるさんから質問のコメントがありました。

 心が病んでくると、思考ももつれ、自分意識も衰退して、混沌としてきます。そのため心の病んだ状態も知覚出来ないことになります。確かに、本人の気持ちは病んでいる状態を認めたくもないし、病んでるつもりもないでしょう。しかし、その病んだ度数にもよりますが、概ねその人の行動はチグハグになったり、言葉も支離滅裂に向かっていきます。自分の観念では平常値を保っているつもりでも、人は一人で生きているはずもなく、奇矯な言動からは、周囲に波乱を起こしていくこととなります。
 通常の生活圏を守れるレベルの心の病いならば、病んでいることにはなりません。境界線を越えるか越えないかによって、微妙な判定になると思われますが、このへんの人々、所謂境界内の人は巷に溢れているものと思われます。むしろ病んでない人のほうが圧倒的に少ないでしょう。自分を知る好機にまで至らない小さな変人は数多くいるものと思います。したがって、その心理的屈折があるレベルに達しないと、「気づき」まではいかないでしょう。

 気づきは試練でもあり、相応の苦境が伴うものです。心の異変が自分自身の手に負えない情況に至って、始めて向き合わざるを得ない自我という心の奔流に遭遇するのです。こうした、非日常の心の屈折変動を見るときが、たとえば私などが立ち会う究極のタイムテーブルなわけです。境界内であっても、予備軍に近い人もあり、少し考えて貰おうかなと想って書いたのですが…。いかがでしょう?
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■■■日曜は芝居見物
2005/09/12 Mon未分類
 中野・ザ・ポケット。東京セレソンDX公演
 「風鈴が奏でる懐かしさと切なさあふれる3つの物語」の最終話。
 「ぴえろ」観劇。
 お間抜けな泥棒コンビ沢木とヤスがその夜忍び込んだのは東京下町の寿司屋「すし政」。しかし難なく見つかりボコボコにされ気絶…しかし翌朝目覚めた沢木を出迎えたのは「お帰り!テル!」
という歓迎の嵐で…

 例によって、人情話のオンパレード。泣かせ所も笑いの壺も心得た作・演出である。解っていながら見事にはめられる。この劇団の色が、実にレトロで馬鹿馬鹿しいほどお人好しで脳天気なのが、まさに懐かしい日本人の心の原風景を醸す所にあるのだろう。第一話の「夕」ですっかり魅了され、第二作「口笛」でも切ない感情になり、いよいよ最終話の観劇となったのである。連作ゆえ、一貫したテーマ設定の構成なので、見落としてはいけない気分にさせられたものである。

島倉千代子の「この世に神様が…」なんて、もろにレトロ歌謡が流れ、下町の寿司屋が舞台なんていう、松竹新喜劇風の芝居だが、それぞれの登場人物が不思議な現実感を醸し、さりげなく物語世界に引きずり込んでいく展開は見事というべきである。勿論芝居は見せ物小屋なのであるが、庶民の実像に肉迫した、情況の切り取り絵図の手法もなかなかである。
 9月19日まで公演が続くので、詳しくは
 http//www.ts-dx.com にてお調べを…

 
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■■■小泉劇場大盛況
2005/09/12 Mon未分類
 自民党圧勝!

 シンプル イズ ベスト。「短い言葉は最高」と元英首相のチャーチルの語録にあるそうである。(朝日新聞・天声人語)

 勝負師的な手法で見事勝ち抜いた小泉氏である。衆議院で与党327議席を確保して、法案可決の実権を掌握したことになる。劇場型の選挙で見応えもあったが、論点が郵政民営化法案の国民投票という次元に集約されてしまうと、一体、それだけで国政を語って良いのだろうか? という懸念か発生してくる。消費税を含む税体系の問題、年金、医療費問題等の国家財政に関する問題、国の財政赤字が770兆円という天文学的な数字をどう解消していくのか? 外交についても海外派兵を容易にするための憲法九条改正もあり、内在する諸問題が一気に加速して、国が暴走体制に入る危険性も無くは無いと思われる。むしろこれからが、国政の山場を迎える訳であり、観劇モードで見ているといつしか、国民が締め上げられる場面展開になることは必至であろう。ご用心。
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■■■心が病む
2005/09/10 Sat未分類
 突然やって来る心の病い

 運気の狭間ということもあるが、平運の情況でも陥ることのある心の異変は、何が原因かを考えるべきである。対人関係であるのか? 身体の疲れから来ているのか? それとも心配事を抱えきれなくなったからなのか? 様々な要因があるはずで、自分の生活状況や、身体情況を振り返ってみることである。大概はこれが原因だと確認できるものである。人から誤解されたり嫌みを言われたり、意見対立で争論になったり、或いはミステイクを犯してしまったり、さもなければ日常がハードで身体的に消耗の極地であったりと、少し落ち着いて考えれば答えが出るものである。

 原因不明の心の闇は基本的には無いものである。必ず現象は因果の法則で、原因があって結果があるものである。ただ、何となくの気分にして放置してしまうと、心は次第に暗愚な情況になってゆき、捕らえ所がなくなって、混迷に向かっていくのである。
 
 心は、思考や感情の受け皿であり、肉体にまつわる本能や、精神理性
を司る実存意識といってもよい。この心というものは、換言すれば、肉体我というものと、精神我というもので構成されている。
 肉体から離れて独立的な心はありえない。心と体の一体を色心不二といって合体同一のものとして考えられるのである。

 心は、基本的にこの肉体我と精神我を保全する機能であり、安全で快適な自我活動を守るために、絶えず日常を観察判断して防御態勢を取ろうとするのである。そのため、いつも迷いや怖れや憎しみや悲しみに陥りやすい性質をもっているのである。したがって心はいつも不確かに揺れ動くものであり、不動心などという概念は存在不能の観念でしかないのである。だからこそ、いつも心を見張っていなければならないのである。精神と肉体の両面から投影されたものとして、心を管理していかなければならないのである。

 心を病むと、思いこみの深みに落ちてゆく。疑心暗鬼になり、人から言われた親切な言葉さえ信じられなくなり、裏読みをするようになってしまう。被害妄想も激しくなり、周囲の人が敵のように見えてしまう。
このまま、スランプに陥ってしまうと、考えすぎて思考の迷路を彷徨うことになる。今までやってきた事さえ忘れてしまい自信がなくなり、ついには自分の能力さえ疑うようになる。

 心は創っていくものであるが、いつも外部からの刺激にさらされていて、肉体、精神の揺れと連動して変容していくものである。心が病むのは、こうした揺れに対する恐怖から来る。この不確かな心をより確かなものにするにはどうすればよいのだろうか?

 心は肉体を操り、肉体は心を操る。病いは気から来る、気を乱せば病いを起こすのである。心には気を伴う。この気は霊気といってもよい。霊性に目覚めることこそが、心の安寧を達成する道筋である。揺れる心を軌道修正しうる霊性とは、闇を照らす光のようなものである。

 人間はこの世に、苦悩するためにやって来たのだろうか? 心配や葛藤を繰り広げるために来たのだろうか? そんなことは断じてない。悲観を味わうために人生があるはずがないのである。

 時代性で更年期性の欝もある。辛い情況の心因反応で苦悩してしまう場面もある。だが、心が自己保全のためにジタバタと苦悶葛藤するものであると認識したときから、気づきがはじまるのである。心の実体が解ってくるようになれば、その心との折り合いの付け方も理解できるようになる。理解だけではなく、さらに自覚できれば、しだいに信念が出来上がってくる。揺らぎがない人というのは信念を持った人なのである。

 心が病んだときこそ、自分を知る好機と思うべきである。病みきる前に思考と実践の基本軸を正すことで明日のビジョンを創り直すことである。信念ができるまで自分と向き合っていくことである。
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■■■観相学入門・その3
2005/09/08 Thu未分類
 占術の大家・中村文聡翁による(康秀編)

 声音について(成功の運を読みとる)

 声には、大人、子供、男女、老若とそれぞれ決まった形がある。

 大人であるのに、子供のような甘ったれた声音、相当な年配の老人であるのに青年のような声音の人がいる。この人は実年齢に見合った運気になく未だ苦労の渦中にあるか、相応の人生を創っていながら、老いに対する恐怖観念を持っている。さもなければ、若者願望の強い人で奇矯な精神構造にある人である。老境に入れば通常は、子供が充分成長して、親の面倒を見る力があって、次第に老人らしくなってゆくものである。声音も当然老いを醸すものである。

 話す言葉に、「鐘音」といって、鐘をついたあとの余韻を感じさせる声の人がいる。吉相で、衆に抜きん出て発達する人で、晩年に至りますます盛んとなる運命である。又、聞いていて不愉快でなく、しかもハッキリした声の人は、ひじょうに幸せな境遇の人である。たとえ、現在困窮の人生であっても声音の良い人は、将来大きく成功して幸せを手に入れる人である。

 声に力のない人は、失敗の多い人生である。身体が非常に大きくて女性のような声の人は絶対に大成しない。周囲から軽んじられ、些かも権威性を保つ場面がない。逆に身体が小さくても締まりがあって大きい声の人は必ず発達する。

 女性は女性らしい声がよく、男のような太い声の女性は、夫を尻の下に敷き、主導権を握り込む人で波乱を起こす事が多い。運勢も変動があって落ち着くことが少ない。女性の声はあまり大きくなく、さわやかに余韻を持ったものが望ましい。人格も穏和でゆとりがある。

 小声で喋り、どもる人は、頭はキレるが、才能がよい方向に働かないために生涯成功する機会に恵まれない。声が堅く感じられる人もあまり大成しないものである。

 人間は嘘をつくときには、決して言葉に力があるものではない。
 正直な事を言うときには、言葉に力が出てくるものである。

 声が大きいのは良いが、破鐘(われがね)や破れ太鼓のような声は凶相である。短命であったり、晩年に没落して非常に貧乏になる。
 潤いがなく枯れたような声は、聞くほうも耳障りで聞き苦しいが、こんな人もあまり発達しない相である。知識学問、技芸に秀でた人でも成功する事は稀である。

 女性の金切り声は、夫を剋す相であり、必ず縁が変わるものである。
女性で声の大きな人は、勝ち気で男勝りである。衣食に困ることはないが、縁が変わりやすく、後家になったりする。
 
 話をしていて、最初はハッキリしているが、次第に声が小さくなって解りにくくなってしまう人がいる。話し方と同様に、運気は次第に衰微して勢いがなくなっていく人生である。

 何か人を騙してやろう、陥れてやろうという人は、アメを含んだような柔らかい言葉つきで、もっともらしく聞かせる話しぶりをする。油断大敵である。

 言葉のひじょうに速い人(早口)は頭の回転が良いように見えるが、実は深くものを考えて喋るのではなく、ただの粗忽者である場合が多い。生涯他人に使われる人生で徳も薄い。

 朗々として余韻のある声は大変良い。心に良策を持ち志しも高潔である。中年には必ず発達する。逆に、大言壮語するが、声に余韻のない人は、大きな事を企てても失敗ばかりする人だから、その言葉を信用して話に乗ってはいけない。

 泣き声に近い声の人は、全くの不運の象。
 独り言を繰り出す人は、心に不平不満を持った人である。或いは自念傷害か、憑依性神経症の人である。(浮遊霊と喋っている)

 笑うときに泣くような顔の表情になる人は、貧相のうちでも特に貧相である。また、怒っているときに笑う表情の顔になる人は、心に毒を溜めているので多く関わってはいけない。

 声音五行論(木火土金水に分けた声音判別)

 木声音…細いが多少カン高い。必ず成功する相。
 火声音…最初パッとしてあとがない。中年に失敗、晩年に苦労。
 土声音…言葉が重く濁る。静かで正しい。非常に発達が遅い。時々他
      人のために迷惑を被ることがある。
 金声音…潤いも締まりもあり堅い。相応の発達をする。
 水声音…長く余韻を持ち、伸びやかな感じ。財をなし、長命の相。

 以上、声音による運気分析です。声にも命運を操る要素はたっぷりあるという訳です。出来れば成功の相に近づける声音にした方が良いのであります。声帯は生まれつきですが、訓練次第で良い声を創っていける話ですから、発声を心がけ、朗読などをしてみるといいのではないでしょうか。「潤いと余韻」「爽やかさと落ち着き」です。

 昔の観相家は、人間の運勢を開発するには、まず声や挙動(立居振舞)をやかましく言って指導するべきと明言していたそうです。
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■■■人生の方向音痴・質問編
2005/09/07 Wed未分類
 はるさんからの質問

 決断に迷ったときに人に相談するというのはよくあることですが、相談している形はとっていても、自分の中では大抵は決まっているものではないですか? 単に「後押し」が欲しいだけなんじゃないかと思うのですが、美老庵にいらっしゃる方々はどうなんでしょう? 私は迷ったときにはとりあえず流されてみることにしているのですが、これって方向音痴になる危険性をはらんでますかね?

 こんなご質問をコメントで頂戴いたしました。

 流されてみる。いい表現です。渓流下りのような風情を感じます。ゆったりと取りまく風景などを見ながら、到着地点も想起しつつ、流れ着く。流れていく自分がきちんと認識されている以上方向音痴にはならないと思います。思念構造のしっかりした人と思います。見切り発車の見切り千両なんていう急発進のドラマは決して演じないのだろうと推察いたします。人生いろいろ、悩みもいろいろ、本当に人は様々です。

 あらかじめ決めた方向の後押しで問いかける。
 この場合は占断も速く、吉凶のみで話が終わります。そう大きな問題を含む事も少ないでしょう。概ねゴーサインが出ます。凶と出ても、対応策を論じて方向が定まることとなります。

 厄介なのは方向性がチグハグな希望です。本人の資質からかけ離れたプランを提示されたときは、クライアントより、むしろこちらが苦悩することになります。「このアンポンタン!何を考えてるんだ」と一喝できたらよいのですが、まさに大マジで食い入るような目をしてたずねられるとかなりやばいです。

 こうした場面展開では、順々と人生の方向音痴にならないようにと、諭していくことになるのです。求めるものと手に入るものとの違いという話や、自分を知るってどういうことか? とか、あれこれやるわけですね。これが、けっして若者ばかりじゃないのが問題で、大人子供が実に多いからびっくりなんであります。お答え出来たかどうか解りませんが、まあ、こんな所です。又是非コメント下さい。 
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■■■本日は断易勉強会
2005/09/07 Wed未分類
 三名の現役占術家の面々がお見えになって、月一回定例の学習の場を設けております。それぞれに占断例を出し合って、断易〔五行易〕の判断、読み取りのレクチャーをし合うのです。たまには激論を交わすこともあり、楽しくも緊張感のある会になっております。「飛龍会」といいます。何だかおっかない名称ですが、易の乾為天より「飛龍在天」から取った名であり、決して筋系のやばい集団ではありません。私以外は皆様妙齢のご婦人方で占歴三十年以上のキャリアの人々です。平均年齢はかなりのものだと察して下さい。

 今日は、たまたま天気の具合が怪しいので天候占など、立てまして、奇妙な占果が出て「晴れるのと、雨降りとが同時に出るんだけど、変ですねえ」
一体何だろう? と皆思案していた所、午後三時あたり、パラパラと雨が降り出し「雨が勝ったみたいですね」などと話していると、にわかに空が晴れはじめ、なおかつ雨も降っているという情況になりました。「これって、狐の嫁入りとか言うんですよね」

 見事に占断結果が出て、読み取り方も完璧であったと大盛り上がりとなりました。易者の醍醐味です。私達って本当に変な人種です。アハハ
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■■■自分探し その2
2005/09/06 Tue未分類
 どうしてむりやり自分を探すのか?

 今の自分に充分満足している人は決して自分探しなどしないものである。満足しないまでも自己認識が出来ていて、自分らしさを表明出来る人も勿論しない。自分探しは、いまある自分自身に不満足で、もっと誇れる自分の可能性を見つけ出す心理構造から来るものである。

 優越感を持ちたい人間は、実はコンプレックスの固まりである。自分の中にある何かに優越意識をしむけていかないと自我が崩壊してしまうからである。

 この優越感を求めて自分探しが始まるのである。「人には無い特別な自分」個性的な自分ということになる。しかし、「個性」なるものの実体は傑出した才能天分、豊かな感受性といったものに与えられる呼称ではなく、むしろその人間の欠落箇所に対する奇矯な礼賛の場合が多く、人格に対する偏狭さを表す反語であることが殆どである。

 自己啓発セミナーやカルト系集団は、こんな自分探しの人々をターゲットにして煽るのである。
 「あなたの自己発見のドラマに力を貸しましょう。新しいあなたを創りましょう。輝かしい明日のために自分を造り替えていきましょう」

 自己啓発のレクチャーを受け、すっかり自信をつけた者は、完全なる我を感じ、その特別感情を伝搬する事に励むように、さらなるレクチャーを受ける。カルトも又しかり。こうしてやばい個性集団が世にはびこる事となるのである。中には素晴らしい組織や集団もあるだろうが、問題は特別自我なるものを求めていながら、実は画一的な個性を授かる矛盾に気づかない事である。こんな個性は、まさに欠落箇所を実証するドラマにしかならない事を知るべきである。

 自分探しとは、見事な企画ものである。ある意味で一つの文化とも言えるが、そこには必ず仕掛け人がいる話で、探させておいて、巧みに押しつけていくものである。所詮自分探しとは、どこまでいってもタマネギやラッキョを剥く事でしかないですから! 残念!
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■■■人生の方向音痴。その2
2005/09/06 Tue未分類
 成り行き任せの人でも運を掴む事がある。

 思考や実践の基本軸など糞食らえという傍若無人の世渡りをする傑物がいる。この人には不可能の言葉がない。何でも考えたことは実行に移す破天荒な人生である。頭で捉えず皮膚感や嗅覚でぶつかってゆく、体当たりの行動原理の持ち主である。悩みは少ない。不安葛藤などみじんもない。滅多にお目にかかれないが、実際にこんな人物が存在するのも事実である。ある意味ではこの人も人生の方向音痴ではある。行方に対する視座など無いまま突っ走るのだから、着地点への考察もないのである。しかしそれなりの達成領域をいつも手にする。成り行き任せでも充分夢を叶えさせているのだから何の文句もない。

 運気レベルはやはり強運であり、特殊構造を持っている。気質的にもかなりの偏りを見せるが、不動の信念に近い揺らぎの無さを持っている。こんな人は占いの結果には頓着しないものだが、稀に紛れ込んだようにおいでになる事がある。

 「自己矛盾のきわめて少ない人ですね。思った事はすぐに行動に出て、結果を出す。その結果からさらに次の行動パターンを引き出す。全く無駄がないですね!」という人物である。

 「悩みが無いことが悩みかな? どんな運命かを教えて欲しい」などと聞かれたりする。これまでの人生はすべてうまく運んでいると断言する。決して威張る風でもないのが、より真実味を帯びている。

 「どの程度の目標ラインで行動するのですか?」と尋ねると、
 「まあ、その時の気分で決めちゃうかな。あんまり目標とか決めたりしないんですよ」などと飄々としている。

 「しいて言えば、人脈がいいのかな。思いついた事を実行に移したときに、助けて貰ったり、自分の代わりに考えてくれる人間がいっぱい居るって事ですかね」

 この人の利点はあらゆる実践行動の場面で代理思考をしてくれたり、行動面も代行して貰える「人脈のネットワーク」に恵まれている事である。思考と実践の基本軸を他者に委ねて達成を果たしているのである。
 「関わる人を引き立て生かし、その利を分かち合う所に意味があるんでしょう。企画立案のセンスも良いのでしょう」
 「勘所はいいんだろうね。でも本当に思いつきだけなんですよ」と言う。この人の特徴は、極めて好奇心旺盛な所、機敏な対応、手足となって動く人脈(人を寄せ集める人望魅力)である。

 夢の実現のための地道な努力は、この人には縁のない世界である。努力実行は人任せでやり通す。こんな人もいるのである。勿論、達成の喜びは、知れたものであろう。欲が無いと言えば無いのである。

 運の良い人、悪い人。様々あるからこの世は面白いのである。成り行き任せのラッキー人生の話でした。
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■■■人生の方向音痴
2005/09/02 Fri未分類
 幸せを求めて生きていながら、不幸せに向かう人。
 
 様々な人生の場面で方向を誤る人が多い。「こんな筈じゃなかった、とんでも無い所に来てしまった。」と嘆く人が沢山いる。けっして馬鹿ではなく知識経験もあり、常識に富んだ人でありながら、道に迷ってしまう事がある。
「やはり、運が無いんでしょうか?」などと落胆を見せる。こういう人を『人生の方向音痴』という。

 仕事、事業、結婚、人間関係などなど、人生の選択の場面で、問題がありながら見落としていたり、或いはつとめて見ないようにしたり、或いは自己過信もある。希望や願望が肥大しているときもある。原因は様々だが、やはり未来ビジョンの組み立てから、行動のプログラムを作り、事を構えるという手順の錯誤や欠落が引き起こしている事が多い。

 未来ビジョンにおいては、空想や幻想は禁物である。自分の達成領域への厳しい審査が必要である。叶えられない夢を描き、そのための曖昧な行動指針を立てる。ふと情況的に可能性を醸す場面が来たときに飛び込んでしまう。「チャンスが来た!」と決起してしまうのである。

 もっとも危険な人は、願望のみで事を選ぶ人である。見切り発車もいい所で、周りにも迷惑をかける厄介な場面を作ることとなる。

 人生の方向音痴は運命の迷路を彷徨うというが、迷路ならばグルグル回りながら、いつかは抜け出る事ができるものである。しかし実は、迷路というよりは、岐路の枝分かれが、いたる所にあって、来た道を後戻りしないかぎり、失踪してしまう事が多い事を知るべきである。1キロ歩けば1キロ戻る。もしそのまま進み、また別の岐路に入り込んだらどうなるか? まるで富士の樹海を行くがごとくである。

 叶えられない夢は見るな。夢を追いかけて方向音痴になるな!
 叶う夢なら絶対に諦めるな!
 その見極めに困ったら美老庵に来るべし!
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■■■自分探し
2005/09/01 Thu未分類
 自分を探すってどういうことだろう?

 当節はやり言葉になっている「自分探し」だが、一体何処に探しに行くのだろう。何処にあるのだろう。闇雲に探し回ったところで自分が見つかる筈がない。かけがえのない自分とは果たして何だろう? ということになる。最初からそんなものは、実は存在しないのである。タマネギやラッキョを剥き続けるようなもので、自らの本体は空っぽのままなのである。

 「私って何者?」と自問自答して答えが出ないときに、関わる周囲に問いかけてみれば、「ああ、あなたっていい人よ、ちょっと気難しいけどね」とか、「空回りばっかりして、理想と現実の解釈が混沌としてる人よね」とか「セルフイメージばっかりにこだわってばかりで実の無い人だよね」とか、他者の方がよっぽど知っていたりする。

 自分探しは過去の追跡から見えてくる。大した人生の軌跡を持たない若者が自分を見つけようがないのである。

 探す事をやめ、未来に向かう自分を創ってみてはどうだろう。創っていくうちに自分が見えてくる。自分の可能性や確かな方向性が確認されたとき、自分探しが達成されているのである。他者との関係に限定された存在理由が自らの内的認識をもったときに、アイデンティティーが完成するのである。自分を創ることが自己発見に繋がるのである。
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プロフィール

鎌田康秀

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    吉祥寺で生まれる。幼少の頃、神戸で過ごす。
    学生時代は演劇青年(不条理系の芝居}。今でも芝居好きで、観劇が趣味{ジャンルは問わず)。占術家以外では一時期、クラフトデザインの仕事に就いた事がある。少し絵心もあり。犬、猫、ウサギが大好き。でも一番好きなのが、やはり人間。思いを共有できた瞬間が最高。語り合う中で未来ビジョンが出来た時が最高。

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