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鑑定歴40年 面接鑑定専門 本格占い 癒しの隠れ家 四柱推命・断易・気学・風水・手相・他
■■■人柄は場によって評価が変わる
2005/08/31 Wed未分類
人格、性格、(パーソナリティー)とは…

 「私の性格って一体どうなんですか?」

 占いの現場で,まずはこんな質問から相談が始まる事が多い。
 さて、この性格やら人格やらは、どう定義づけ、どう解析すべきものであろうか?

 性格とは通常の立ち居振る舞いや、人との関係性においての反応形態から推理される類型で判断されるものである。素直、従順、正直、実直、謙虚といったもの、逆に剛直、頑固、偏屈、傲慢、意固地などといったもの。明朗快活や、暗愚怠惰、質実剛健や因循姑息などなど。
 
 
価値観や思想性、主義主張といった心のこだわり所も性格人格に影響をもたらす事になると、本人の教育レベルや環境的視座も必要となってくる。
 
又、すべての概念は表と裏があって、「素直や従順」が表の場合、裏には、付和雷同性や、事なかれ主義や、反骨精神の欠落といった意味が隠れているのである。「正直、実直」も状況次第では愚鈍となったり、場が読めない阿呆となったり、他者を傷つける場面となったりするのである。「謙虚」も時には、愚直になったりする。「剛直、頑固、偏屈~~」においても、単に自我の肥大した排他的な気質と断定は出来ず、独立孤高とか、潔癖とかの意味にもなり、一貫した思念構造の持ち主と評価される事もある。他方、思慮深い人なんていうのも、裏返せば行動主義の欠落でグズグズ人間と言われたり、決断の早い人も、反面短慮性急のせっかち人間と言われたりするのである。

 時代性もある。置かれた環境もある。与えられた情況で性格、人格は意味づけがコロコロと変わる。運が良いという事は、自分のパーソナリティーがプラス展開に評価付けを受ける場に居る事である。逆に運を上げるためには、その場に相応しいキャラクターを創り演じる事である。
 人対人の関係から、人生の幸不幸が分かれるのは仕方のない事であり、自分が活きやすい環境に身を置くと同時に、生かされやすい性格、人格を創っていく事である。

 結婚もそうである。それぞれの個性が好ましく思える者同士が結びつけば、周囲から気味悪がられる変態であっても仲むつまじい愛情生活となる。思い切り楽しんで暮らせば良い。

 偏屈者も場が与えられれば、超一流の名人、業師になったりする。昨今の「おたく」ブームもしかり。おたく故に一級のスペシャリストになったりするのである。偏屈故にものに拘り、執着も強い、偏狭なるが故にその持続性も並みじゃないのである。私事ながら、我が生業は偏屈なるが故、おたくなるが故の達成である。文句あっか!?
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■■■観相学入門・その2
2005/08/30 Tue未分類
 占術の大家 故中村文聡翁による(康秀編)

 座っている時の相・その他

 相対座して鼻の穴が見える人は口先ばかり調子よく心に真実が無い。
 女性で頭を年中、上の方に上げているのは夫縁の変わる人であり、又生まれ故郷を離れる運命が強い。人と対座して、膝を撫でたり、襟元を気にしたり髪を触る男性は女難の相である。女難とは、女泣かせでもあるが、女から泣かされたり無理難題を突きつけられたりの事が多い人でもある。決して喜べない相である。
 
 人と話をするとき、肩をいからせたり、ひじを張る人は貧乏して苦労する人である。心労多く発達しない相である。
 人と向き合い、顔を手で撫でる人は、現在運気が塞がって万事思い通りにいかない情況である。
 座っていて、首を伸ばしたり縮めたりをするのは運気がチグハグで発展しない。
 
 ハナをすすったりクンクンいわせる人は中年期に破産する相である。
 ものを言うときに目を閉じる人は悪事を企む傾向。しかしものを聞くときに目を閉じるのは熟慮の人で差し支えない。
 上目遣いで人を見るのは、人を欺き、騙す気持ちのある人である。
 大した事でもない事柄に大袈裟に驚く人は、淫欲旺盛で浮気な性情である。身持ちが悪く次々に愛情対象を変えていく。
 
 喋るときに口から泡を吹く人は運の弱い人である。又、口の端に泡がたまるのは、気持ちが塞がり欝状態の時である。
 常に、口の辺りをぬぐう癖の人は、人の頭に立つ運を持っている。
 話をするときにヨダレを流す人は、子縁が無く、又仕事で部下の持てない人である。
 
 いつも鼻をいじっている人は、金銭に苦労する。財政管理に行き詰まる運の人である。
 ものを言うとき唇を舐めたり歯で唇を押さえ込む人は心に毒がある。 相談に来ていながら、自分の意見ばかりを喋る人は、人の意見を聞かない強情っ張りである。
 
 呼ばれて直ぐに返事をする人は、才知もあり正直である。
 話をするとき、言葉つきは実に律儀に聞こえるが、粘ついてゆるゆる話す人は、心に企みがあって油断のできぬ策士である。
 目の中が赤く濁ってしきりに瞬きをする人は、心に毒を宿し嘘も平気でつくので信じてはならない。
 
 対話のとき、まずニッコリして、それから話をするのは、男性であれば運気発達の吉相だが、女性であれば、淫婦の相であり男殺しである。
 人と応対しながら時々顔をそむける人は、心中に企みがある。
 物を見るのにまばたきが多いのは、短気で臆病者であり、何をやっても失敗を繰り返す人である。
 
 横目を遣う人は、色難多く淫欲が強い。
 物を見るのに、愁うるように眉と眉を寄せしわを作る人は、苦労果てなく発達しない人である。
 頭を振って物を言う人は、女性は夫縁が決まらず、男性では、親からの譲りが身につかない。
 
 物を見るのに頭を傾げて見る人は、男性は寿命が短い。女性は夫で尋常でない苦労をする。
 物を言うのにアゴを突き出す女性はたびたび縁が変わる。
 
 アゴや頬をしきりに撫でる人は住居の苦労が多く仕事も定まらない。
 座って貧乏ゆすりをする人は、住所定まらず仕事も不安である。
 話をするときにあれこれ癖の多い人は、心に悪い気持ちは無いが、何事もし遂げる事が出来ない人である。
 
 座っていて、しきりに毛髪をいじる癖の人は、せっかちで偽り事が多いし、又性欲が異常に強い。ちょっとは才能もあって人受けも良く可愛がられるが、中年期以降から運気が下降する人である。
 
 腹の立つときは、まばたきが遅くなるという。又、顔色が赤らんで見たり青白く見えたりするものである。
 無心に来たり、詫び言を言いに来たりしたときは、顔色が赤くて、座っていても落ち着きがない。又返事をよくしたり、笑顔を作ったり、いつもより特にお喋りになるといった状態になる。

 様々な相から運気を判断するのである。是非参考に。
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■■■職業選択
2005/08/29 Mon未分類
 やりたい仕事とやれる仕事

 生き甲斐、やり甲斐を求めるか、効率よく生きるために求めるかによって、職業選択の方向が別れる。趣味や価値観を中心に考えて気持ちよく生きていけそうだと思っても、生活を支える事の出来ない分野であれば、結果は気持ち良くは生きられない事になる。青春は、希望と情熱のみで走る事ができるが、やがて、経済的な自立が叶わない情況をいつまでも続ける訳にはいかない事になってくる。そこで現実を見つめて、やれる仕事を自分の能力の及ぶ半径で模索する事となる。問題は実利的側面ばかりが先行すると、気持ちの満足が阻害されて、何のために働き、生きて行くのかが解らなくなって、苦悶が始まってくるのである。

 職業は、社会的な意味での自分の存在理由であり、生活上の重要な立場である。同時に心や魂のレベルで成長の喜びが無くてはならないものである。天職と適職のバランスの問題と言ってもよい。天職は、あるがままの自分を差し向けて叶う世界の仕事であり、心や魂が悦ぶものである。適職とは、その人の器や技量の及ぶ仕事である。
 
 適職ながら、心が摩耗して、生き甲斐喪失となる人。天職ながら、生産性が低くて、生活不全になる人。この両極の葛藤がいつもついて回るのが人生だといってもよい。自らを信じ、選んだ職業の中で人生の達成領域を手に入れる人が幸運の人であり、たとえ達成出来なくても、日々求め続ける人生ならば、同じく幸せな人である。

 好きな道だから、どんな苦労も出来る。たとえその道が険しく苦難に充ちていたとしても「これが私の生きる道」と思える仕事に就いた人は充分な生き甲斐を持っている。果たしてそうか? 心や魂が悦んだとしても腹が満たされて始めて叶う喜びであり、また関わる人々の賞賛も無ければ、只のはた迷惑な自己満足にすぎない。働くの語源は「はたが楽」になる事である。無論自分も楽でなければならない。

 なかなか人生は思うようにいかないものだが、自らの思考や実践の方向に活路を見いだして明日を創らなければならないものである。今関わっている仕事に対しても、天職に繋がる道を探してみる事が必要である。想い方を変えてみたら、新たな心の喜びや魂の成長発展が見つかるかも知れない。意味づけや意向の定め方で現実が変わってくる事を知るべきである。まずは試してみる。いよいよ活路が無ければ違う道筋を求める事となるが、充分な自己対話の後には確かなアイデンティティーが生まれている筈。

 
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■■■結婚適齢期
2005/08/27 Sat未分類
 結婚はその人の時代が決める。

 結婚は人生の大きな転期である。自分一人で決められる事ではない。出会いがあって、心が通って、愛を感じあって、そして共に新たな生活状況を創っていく事が結婚である。信頼と尊敬は勿論、何より大事なことは、二人のそれぞれが縛りあいがらも、自由を感じあえることである。自分の領域が侵されているように感じるなら、それは良い結婚とはならないものである。相互依存は良いが、一方的な依存は相手の領域を阻害することになる。又、生活を共有するとしても、人生の実体は各々が違った世界を持つものであり、無理矢理統一しても破綻する事が多いものである。それぞれの自我領域の接点がどう重なっていくかが、結婚の幸不幸を決定する。

 相性というものがある。価値観や思想性が異なっていても引き合う相性というのがあって、何があっても許し合える間柄がある。
 逆に求め合い愛し合い、理解し合う二人なのにいつも争論が絶えない間柄もある。様々な愛の形があって世間は騒がしいものだが、いずれにしても、結婚は他者との交わりの約束行動であり、特定の制約条件の中に人生を括ることである。

 この人生の選択に、それぞれの運気が関わってくる。時代がずれた結婚でつまずく事が多いのも事実。しかし、運命学でいうところの婚期については、分析上の論理基盤があるようでいて、実は曖昧なものである。やれ空亡だの、大殺界だの、暗剣殺だのというが、実際の検証では、断定できる吉凶の結果は定かでない。ただ、こうした運気は心が暗昧で定まらず現実遊離する事で、結果が良くないと推理するだけの話である。実際私事では、我が結婚は空亡期に行い、式は仏滅日である。アハハ。意識に確証あれば怖れることはない。

 昨日は、四十才の女性の結婚相談があり、その後、四十一才の女性の不倫と結婚問題の相談があった。いずれも未だ独身。これまでに、相手を選び、交際し、愛情確認し、共に生きる決断までに至らず、今の年齢を迎えたわけである。理由は様々だが、自らの人生の基本軸が出来ないレベルで結婚生活に入る自信が無かったという。相手に生活を委ねる事に関しても不安があり、依存する事が怖いともいうのである。

 若くして決意する者もあれば、還暦を迎えるまで覚悟の出来ない者もある。失敗、やり直しもいくらでもある。適齢期はその人自身の人生の意味づけの確かな瞬間に起きる。確かでなくとも、勇気が出たり弾みがついたときに起きるものである。高齢者の結婚相談も多くなっている。
人と寄り添い人生を築くのに年齢は関係ない。愛する心を持ち続ける事こそが青春である。
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■■■夏の夜のロミオとジュリエット
2005/08/27 Sat未分類
 天王洲アイル、アートスフィア。シェークスピアの夏の夜の夢」と「ロミオとジュリエット」の二作を合体させたFANTASIC MUSICALを観劇する。作・演出・振付ー玉野和紀(タップダンサー)

 ロミオが佐藤ひろしとなり、ジュリエットはアフロディーテとなる。設定は天上人と地上界の人間との悲恋物語。時代状況は無茶苦茶でストーリー自体もきわめて陳腐で漫画チックなのだが、演出構成が素晴らしく、様々なジャンルのものが融合して華麗でスリリングな舞台空間が出来上がっている。クラシック・ジャズ・ミュージカルの音楽。タップ・ジャズ・バレエ・ヒップホップのダンス。溢れる才能の人々が弛まぬ努力と修練の成果を見せつける。あっという間の二時間強。
 
 出演者の「三咲レアさん」のご縁で観劇の機会を頂いたのだが、まさに観劇・感激。芝居とダンスショーと歌劇とボーカルライブと盛りだくさんの舞台。満腹の筈がもっと食べたい気分になる。いろんな演劇世界があるが、今回は結構びっくり。すっかり楽しませてもらいました。
 
 芝居の基本軸はつまるところ、見せ物小屋である。どれだけ見せて、どれだけ驚かして、どれだけ感動させるか。そのひとときを、日常から心を解き放っていかに異界空間にトリップさせるかであろう。レアさんのダンスは、長きに渉るバレエ修行によって、しなやかであり、力強い躍動を見せ、圧倒させるものがありました。
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■■■道 歩いてきた道
2005/08/26 Fri未分類
20080714102022


ずっと ずっと 歩いてきた道

そして これからも歩いていく道

必ず出会う人がいる 必ず待っている人がいる

必ず見つける景色がある 必ず待っている場所がある

まだ会ってない まだ見つけてない道

何処までも 何処までも続く道

20080714102021


時には迷路に入り込み あてどもなくグルグル回りもしてみよう

寄り道も回り道もしてみたらいい

きのうからきょう そしてあしたへと続く道

時には走り出し 時には立ち止まる

曲がり角にさしかかったら 捜してみよう

キミを待っている人が 微笑みかけてくるかもしれない

キミの姿を見つけて 飛んで来るかもしれない

そして そして…

本当は一緒に歩いて来たはずなのに いつしか違う道を歩いている

その人が又手を繋いで歩いて行こうと 待ち受けているかもしれない…


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■■■意向を定める
2005/08/24 Wed未分類
 充実の人生、意味のある生き方というのは、自らの存在理由、自分らしさといったものをまずはきちんと創る事から始めるのが大事である。

 人生の営み方の方向を定める。「意向を定める」のである。つまり意識の方向、意志の向かう道筋をいう。自分の幸せの優先順位や、手に入れるものの質や多寡をある程度決めておく事である。

 何もかもが偶然の産物と人生を括ってしまうと、成り行き任せの訳の解らない居所不明の人になってしまう。心のホームレスになってしまうのである。思考や行動に意向が定まっていなければ、浮浪の人なのである。

 この心のホームレスは、実はかなりの増加傾向にあるように思われる。目的が無い。どう生きていったら良いのか解らない。何が欲しくて何が要らないのかも解らない。何をすべきかもさっぱり見当がつかない。「あるがまま生きてる」と言えば格好いいが、あるがままは無いがままであって、悔恨も苦悩も葛藤も無い。達成も感動も満足も無い。

 人生は求める所から始まる。求めず得られたものには価値もない。飢えるほどに求めるからこそ、得られた時の喜びもあるのだが、その喜びを手にする人が少なくなってきている。人生の醍醐味を知らない人だらけである。意向を定め、求め、掴まえる。それしか人生の充実の道は無いのである。
  
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■■■観相学入門
2005/08/22 Mon未分類
 占術の大家。故中村文聡翁による。(康秀編)

 「歩き方による運の諸相」

 身体がどっしりと重く見えながら脚が軽く動く人がいる。こんな人は運の有る人で、威厳が有りながら行動は迅速で機転もよく効く人である。所謂、虎歩といって虎のような歩き方を言う。反り返らず、前のめりにもならず真っ直ぐで落ち着いた風情を持ちながら、歩行は腹(臍下丹田)から進む。そして案外速いのが特徴である。

 運の無い人はいつも脚を引きずる感じになる。太っていようが痩せていようが無関係で、先に進むのが鬱陶しい感じを表していて、まるで覇気がない。重い荷物を背負ったようにだるそうな印象である。

 何となく落ち着きが無く、騒がしく歩く人がいる。こんな人は、事業を興しても散財して必ず失敗する人で、住居もたびたび変わり人生も騒がしく落ち着かないものである。急ぐ事もないのに駆け出すように歩いたり身体ごと騒がしく歩く人というのは、決断力に欠け、迷いの中に人生を送る人で、親の財産を受け継いだとしても、身に付く事はなく、生涯を貧困で暮らす事になる。

 身体や腰に力が無くグニャグニャとした歩き方、これを蛇行という。或いはすずめがピョンピョン跳ねるような歩き方、これを雀行というが、こんな歩き方をする人は、いずれも心に邪悪な想念が潜んでいて表面が人格高潔に見えていたとしても、人を欺いたり奸計を企てたりという油断のならない人である。

 貧相で、運に見放された人というのは、歩き方に一貫性がなく、ヒョコヒョコしたりノロノロしたりと、脚の軽いような重いような訳の解らない歩き方をするのだが、この歩き方をしている間は決して運が開ける事がない。この歩き方を改めぬかぎり、失意と絶望の中で人生を送る事となる。心が変われば歩行も変わる。或いは歩行を変えれば、心が変わるものである。

 歩きながら、しばしば後ろを振り返る人がいる。この人は心にやましいものを持っている。誰かに追われているような強迫観念がいつもつきまとっているのである。

 つま先で歩く人は、住居が定まらず仕事も転々とする。飽きっぽい人で気持ちが落ち着かない。又、足先を見ながら歩く人は、底辺を行く人で成功の意志もなく、いつも人に使役される生き方となる。

 くたびれたような歩き方の人は、子孫に恵まれない。一代限りの、未来に続く人生を創れない人である。運を開く気概もなく、人を育てる指導性も皆無である。

 運勢が衰えてくる前兆は歩き方に表れてくる。歩きながら首を傾げたり、身体を振るようになったら要注意である。自信もなくなり思考能力も低下して、情況と闘う意志力が無くなっている証拠である。

 足音を立てて騒がしく歩く人は、心に締まりがなく仕事も失敗が多いものである。人間的には正直者で善良であるが、運は小さく貧乏に甘んじる人となる。

 一直線歩行は短慮性急な人である。人の言う事は殆ど聞かない傾向で独断独行して、それなりの運を掴むが永続性がないものである。

 人の家に入るときに、全く足音を立てず静かに入る人がいる。こんな人は疑念や悪意の固まりの人で、孤独性が強く、情も薄いので人望は無いものである。

 威張ったように肩をいからせて外股で闊歩する人は実は小心者であり、事が起こると狼狽して逃げ出す人である。

 女性で上を向いて歩く人は、短命か孤独の相である。愛される幸福を放棄している人である。独善的で思いやりに欠ける人となる。

 男性は、多少上向きに歩くのが良いが、女性は少し下向き加減が良いのである。

 歩く様子が何だか変な人というのは、総じて流浪波乱含みの相であり、身辺に変化移動が多く苦労が絶えないものである。

 以上、解りやすく書き加えてみましたがいかがでしょう。心や運気は身体に表れるもの。心して歩いてみましょう。
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■■■同窓会
2005/08/22 Mon未分類
 土曜日の夜、新宿で大学時代の芝居サークルの仲間と久々に会う。同世代ゆえ皆結構な年である。私と同年の配偶者を今春見送った女性がおり、もうそんな時代に入ったのかと感慨もひとしお。
 残された日々を大切にしていきたいと思う事しきり。

 やはり話は当時の事に及び、いきなり時代が逆旋し始める。心はすっかりハタチになって、青春を熱く語る仲間達。記憶こそが人生だが、さらに忘れ去った記憶が語るうちに蘇ってくる。既に消去されていた自画像も曝される事となり、赤面の場面ともなる。旧い友に会うのは、新たな自分発見でもある。当時の熱情がどこまで持続したか、或いはどう変容したのか、そして何が実現されてきたのか? 思えば悔いの多い春秋であったが、こうして再会して語り合える事がなにより。自らの人生の軌跡が確認される場でもある。又、是非会いたいものである。
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■■■他人の鏡より自分の鏡を
2005/08/20 Sat未分類
 人はいつでも向き合う者との関係実相のなかで人生が彩られていく。

 しかし、人からどう思われているかを常に気にしていると、それに囚われ縛られてしまう。人は、その人の主観で様々な見方をするし、情況や立場から誤解もするし錯覚もする。人の目に自分がどう写るかという事に過敏になっていると結局自分本来の姿を見失ってしまう事になる。

 相手の目の中に自分があり、自分の未来があると思ってしまうと、いつしか受け入れて貰うためにペルソナ(仮面)を纏う事になってしまうのである。自分じゃない自分を創ってしまうのである。

 アイデンティティーとは自己同一性という概念だが、かけがえのない自己という存在理由を保持している人が一体何人いるだろうか? 関わる関係性の中で幾つもの自己を保ち、その関係からくる期待に答えようとする。同一性ではなく、分裂性になってしまっている。関係は関係でしかない。その関係に自分をどれだけ投影させる事が出来るかが大事である。他者の思惑の中に人生を集約してはならない。

 恋愛相談で、こんな質問をする人がいる。
 「彼の心の中で私はどんな存在なんですか? 私は彼が必要としている女なんでしょうか? もし違ってたら、そう思われるために私はどう振る舞ったらいいんでしょうか?」
 又、親族問題では「母親は私が愛しくないんでしょうか? 心配じゃないんでしょうか? 姉は、兄は、弟は、父親は、どうなんでしょうか?どうしたら構って貰えるんですか?」
 職業環境では「部長は私を認めてくれているんでしょうか? それとももう辞めていいからと思ってるんでしょうか? どうやって取り込んだらいいんですか?」

 さまざまな人間関係の恐怖概念に取り憑かれた人が多い。どう思われるかより、どう思わせるかが大事であり、それ以前に自分自身が何者であるかを検証すべきなのである。

 「人と向き合う前に、しっかり自分と向き合う事が大事」
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■■■成功と努力
2005/08/20 Sat未分類
 「成功」という願望を達成させるには、天賦の才能と目標設定の確かさと周到な計画と、さらに絶対不可欠な「地道な努力」が要る。
 
 思考と行動とが基本軸を持つ事は言うまでもないが、願望を成就させるには、自らの「夢」を持ち続けるしぶとさと同時に、日々の精進努力が欠かせないのである。怠ける天才と努力の凡才は、結果は凡才が勝利する事を知るべきである。

 願って叶う事はもとより天賦の才に依るものだが、その才に驕る者は達成を見ず、かえって挫折したり放棄したりするものである。才能への自画自讃は衆目にさらされると、脆く崩れやすいものだからである。多くの讃辞を受ける間は、自信もあり、達成領域も間近と意気軒昂であるが、ひとたび批判されたり、否定的な態度を取られたりすると、怒り出してみたり落ち込んでみたりと「狼狽」を見せる事が多い。或いは才能の発揮が容易に出来る事で自己慢心となり、そのため「過信の失敗」を呼ぶ事となる。

 我がクライアントには才長けた人も数多く、未来も輝かしいものであると断定した事もしばしばである。だが彼等の実人生を追跡してみて、見事な達成を果たしている者が案外少ないのに驚かされる。

 侮っていた友人に先を越された。まさかあの人間に負けるとは?
などと悔しがる場面もあり、慢心と怠惰が呼んだ悲劇をかいま見る事がある。努力の凡才が勝利する場面である。
 果たして凡才と言えるかどうか? 凡才を自認していながらも、持続的な努力精進を果たす事こそは天賦の才覚とも言えるのである。人の優劣は可能性のレベルでは決定できない。結果を見てその人の選んだ道筋と歩んだ軌跡が評価されるのである。さらには、結果の成果で判定するものでもない。

 授かった命と命運をどこまで発展昇華させるか、どこまで自分を磨く努力をするか、人生の優劣は、達成領域ばかりでなく、磨き込んだ心魂の、輝く光彩の多寡によるのである。  
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■■■不幸を楽しむ人
2005/08/19 Fri未分類
 人から好かれ、愛され、慈しまれる、信頼され、尊敬され、求められる。誰しもが望む人生の境涯であろう。人は一人では生きられない。そこで、必ず向き合う者との関係の中に愛と絆を求めることになる。
 
 だが、稀に関わる人々との間に、不和争論の渦を作り激しい疎外情況に身を置く人がある。むしろ、その事を楽しみ悦ぶ人がある。「愛と絆」が欲しい筈なのに、破滅的な行動原理を得心したように振る舞うのである。わざわざ不毛の人間関係を創り勝手に納得するのである。「孤独を愛します」などと言い切る。「誰も信じられません!」とも言う。
 
 こういう人には「貴方は、む行の人だね」と言ってやる。
 
 妬む・嫉む・恨む・怨む・憾む・痛む・傷む・憎む・僻む・儚む・縮 む・竦む・蝕む・悔やむ・悩む・哀しむ・悲しむ・悔やむ・苦しむ・
 そして思い切り絡む。

 こんな「む行」に生きる者と関わったら、かなりのダメージである。
 実人生のマゾヒズムという事か。しかし相対する者は被害を被るのでむしろ加虐性向の人になる。
 原因は断定は出来ないが、概ね幼児体験に愛情飢餓がある。差別感情に遭ったり、条件付きの愛情を受けた者が多い。記憶に留める事も曖昧ながら、知らずトラウマ(心理的外傷)となって、愛される事に恐怖観念が伴っているのである。小さい頃の親兄弟や友人、教師からの迫害などもある。このあたり、占い師は心理カウンセラーになってしまうのだが、運を操るものが、本人の顕在意識ばかりでなく、深層の隠蔽された想念や感情領域からなりたっているので避けては通れない。

 「本当はすごく寂しいんだね」から始まり、ゆっくりと過去への探索をしてゆく。心が少しづつ開かれていけば、「愛と絆」のテーマは近い。自分探しの相談となる。自分の求める幸せ探しとなっていく。はなからイヤな奴もいないし、嫌われ者を望む者もいないのである。一度で済むことは勿論稀で、数多くの面談で、時には代理思考もして心を再構築していくのである。  

 そして、いつしか「む行の人」はマイナスからプラスの「む行」に変わっていくのである。

 愛しむ・慈しむ・和む・育む・生む・産む・そして微笑む

 人は一人で生まれ、一人で死んでいく。されど、生きる道筋には共に手を携えて生きる仲間がいる。決して一人ではない。向き合う者との関係性に思いを寄せ、愛と絆を持つ事が希望に溢れた未来ビジョンの礎となる。開運の道程は人との出会いにあり、人との結びつきにあり。
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■■■求めるものと得るものと
2005/08/18 Thu未分類
 求めて得られないものを求めても苦悶しか残らない。
 
 叶えられる世界、手に入れる幸せを誤って認識する人が多いが、自らの命運に問いかけ、思考と実践の基本軸の中に達成領域と限界数値を確かめる事が必要。残念ながら与えられた宿命構造に不平等がある事を知るべきである。生まれた場所、性別、受けた教育、育てられ方、そんな自分で選ぶ事が出来ない情況から、自ずと命運の許容半径が定められていくのである。さらには、生まれながらに持つ運の強弱、方向性もある。
 命運の限界数値は厳然としてあり、いかなる努力をしても、いかなる方術を使っても叶えられる半径が定められている。
 与えられる恵みとその多寡を知る必要がある。悲しいことだが、結婚運の無い者が幸せな婚姻生活を望んでも叶わなかったり、むりやり成就させても、結果は破綻してしまう場合が多い。商業的才覚を授かっていない者が事業を打ち立ててもすぐに倒産廃業となる。子縁の無い者が子を欲しがっても授からなかったり、もし子を得たとしても、その子に悩まされたり、生育がかなわなかったりする。
 
 自分にとって、得られる幸せを見つけて精一杯、達成に向かう努力をすべきである。無い物ねだり(命運の筋書きに無いもの)をすれば求めても叶わず、悲しみ、苦悩しか残らないのである。

 又、運というのは、一生掛かって手に入れるものの数値がおおよそ決められているものである。
 こんな話がある。財運を目指して、求財のまじない方術の限りを尽くして大金持ちになった者がいる。我が知り合いの術家が奇門遁甲の方位取り、呪符、霊符も駆使してあっという間に財を集めたのである。流通関係の事業で異常な発展を見たのである。しかし、運の限界数値の鉄則により、成功は長く続かず、数年で事業は壊滅的な状況となって、倒産。財の流入がストップしてしまったのである。
この人の三十年分の財を三年の間に手に入れた結果の悲劇である。その人は夜逃げの末、行方知れずとなり、後年にホームレスになっている所を知人に目撃されたという。運命とはまさに幻妙なものであります。
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■■■真夏の静寂
2005/08/17 Wed未分類
 青い空。強い日差し。賑やかな蝉の声。街に出れば道行く人々や走る車達の喧噪。そこで感じる深い静寂。大気が燃える極点で醸す静寂の世界。

こんな感覚は私だけのものだろうか。
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■■■若き女性三人様
2005/08/16 Tue未分類
 我が娘と同世代の女性がやって来る。23~4才の「女の子達」と言った方がいいかも知れない。一人づつの相談。それぞれ個性が違い三者三様の人生を見る。修羅を見てる子もあれば、未だどう生きるかの基本メニューで悩む子もあり、又男女の愛憎に悩む子もあり。命理が違えば目指す人生もまるで違っている。まだまだ残された年限をどう組み立てどう気合いを入れるか? 楽しくもあり、切なくもありといった所か。したい事と出来る事が違っていたり、欲しい物と手に入る物がずれていたり、描くイメージと現実の狭間で葛藤が始まっている。若さゆえの気迫と危うさ、或いは希望と諦念という二律背反の心理構造で皆一様に苦悩を見せる。準備期を終え実社会の波にもまれ始めている今。こんな時代が一番人生を模索する時かも知れない。思わず青春の息吹を懐かしく回想する私が居る。
 
「これから人生の熱い湯に入るんだね」もうすっかり湯につかり、風呂上がりのビールなど飲んでる親爺の私。
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■■■占いと代理思考
2005/08/15 Mon未分類
 様々な情況で判断に窮するとき、占術は包括的な概念も細部に至る読み取りも、それに基づく行動指標も提供する事となる。提供出来なければ術者とはなり得ない話で、深くも浅くもクライアントの要望に答えていくわけである。問題は、いつしかその人に代わって思案を巡らす場面となって、思考も実践もその基本軸すらも与えきってしまう結果となる事である。占い依存はこうして生まれるのである。ある段階までは、代理思考も必然である。その人の身になって考える事が無ければ、運の開きようも無いのだから。しかし、度を過ぎるとその人の思考回路を占領する事になって、羅針盤を奪ってしまう愚を犯す所となる。

 こんな時は、勇気を持って突き放さなければならない。とても辛い場面だが、巣立ちはいきなりやって来る。そうしてあげなければ心魂の自立はないのだから。今日はそんな場面でありました。
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■■■信頼と尊敬
2005/08/13 Sat未分類
 愛する者同士に、信頼や尊敬が絶対条件である事は言うまでもない。
 「彼(彼女)を信頼出来ません。尊敬もしてません。ほんとうに辛いです」
 恋愛相談で圧倒的に飛び出る言葉である。嘘をついた、約束をすっぽかした、無視した、他の異性に心を移した、などなど。自分の存在の領域が傷つけられた事への怒りや憎しみを代弁するまことしやかな台詞である。愛情対象として相手を選んだ自分自身の立ち位置はどっかにやって、或いはそんな情況に至った原因を見つめる事なくまくし立てる人が多い。そんな相談場面では、一通りの怒りの波動を受け止めてから、次に「気持ちは充分解ります。それで相手とこれからどうしたいの。どうなったら気が済むの?」と聞いてみるのである。「本当にひどい話だよね。もう別れた方がいいかもね。そんな相手を許せる訳ないよね?」などと問いかけてもみる。怒りのレベルでは、この段階で気持ちが少し落ち着いてきて「別れたくはないです。原因を考えてみます」となる。しかしこれが憎しみのレベルになると、まさに歪んだ怒りであり、怨念をよぶ所となる。信頼や尊敬はどっかに吹っ飛んでしまって復讐心の虜になっている。愛するがゆえの怒りである。

 しかし、この愛の葛藤こそが、実は自分自身の想念や心象や魂の有り様の自己確認の場面である事を皆知らずにいるのである。信頼と尊敬こそは自らに問いかける疑問符であり、自分が自分を信頼できているのか?尊敬できているのか?相手に向かう以前にそんな自己対話をしているのかどうか? 気持ちのうねり(怒り、嫉妬、憎しみ、悲しみなど)は、自己存在の気付き、心や魂の気付きの出発点なのである。
 よりよく理解昇華した者は、運を開いていくし、失敗した者は、同じ過ちを繰り返し何度も心魂の追試を受ける事になる。自己への信頼と尊敬こそが充実の人生を創る源泉である事を知るべきである。今日もこんな事がテーマの相談になったので思わず記してしまった。
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■■■懐かしいお客様
2005/08/12 Fri未分類
 二十五年のつき合いのお客様より電話を頂く。来週お見えになりますが、会うのは五年ぶりですか。人生を共に語り、生きていく様々な場面を一緒に悩み、苦しみ、喜び、思いを分かち合う。命の運び方を学び実践していく中で互いの成長も、或いは退行も認め合う。そんなお客様が大勢います。生かし生かされの関係です。出会いが人生を創る。出会い向き合い、真剣に人生を問う。一度の話で運命を語る事は出来ないもので、一緒に時空間を共有する思いで語る事から、確かな何かをつかまえる事が出来ると思うのです。長く関わる事で命理や運勢の流れも確かな実証を得る事が出来るのだと思います。そんな仕事をしつこく続けている康秀です。よろしく。

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■■■愛情執着と怨念
2005/08/11 Thu未分類
 愛を失う悲しみは、その執着のレベルもあるが相当に辛いものである。これまで、あっさり諦めることが出来ない場合の相談に数多く立ち会ってきたが、怨念に近い想念の渦もしばしば。
 「何とか相手を取り戻せないでしょうか?」はまだ序の口で「取り戻せないくらいなら死んだほうがまし」も軽いレベル。「こんな目に遭わした相手が憎い!呪い殺す方法を教えて欲しい、何でもやります」という究極の訴えも一度だけじゃない。「人を呪わば穴二つを知ってますか? 穴は墓穴で相手と貴方の二つの穴なんですよ」などと言っても、聞く耳持たず。「まじないは、人を生かすために行うもの。殺すために行えば諸刃の剣で自分も斬られることになるんですよ」と言っても、頑なになるばかり。人の心とは、追いつめられるととんでもない心象レベルまでいってしまうものである。命運を作為的に操る呪術もない訳じゃない。開運法にも方位取りがあったり呪符,霊符の法があったり、杭打ち、護摩焚き、水撒き、生火の法などなど多種のメニューがあり、これを専門にする術家もいる。

 以前、こんな事があった。常連客の相談で、現在つきあっている男の冷たい仕打ちに涙する場面となり、相手の理不尽で手前勝手な振る舞いの数々を聞いていたのだが話が進むうち、だんだんこちらも腹が立ってきて、その相手をさんざんになじり倒して、その女性の気がすむまでつきあったのだが、その後、数日して、相手の男が交通事故に遭い車は大破、幸い命は取り留めたがかなりの惨状であったという。その女性の念もあるが、一緒に語った我が念も怨念倍加に繋がったようで、大変な情況を作り出してしまったのである。偶然といえば勿論、なんの根拠もない。しかし、その女性がその後に恨む心を反省したのは言うまでもない。怨念は飛ぶもの、相手にとりついて凶事を起こすものである。
 
 怨念を醸成するまでの生き方。愛し方、愛され方が問われる事となる。愛情面における思念と実践の基本軸が出来ていなかった悲劇である。すべては心の写し絵だが、こんな絵を描いてはいけないのである。
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■■■「思考と実践」には基本軸が必要
2005/08/10 Wed未分類
 生きることは、思う事であり行為する事であり、そして動いた結果からの事象が記憶に刻まれ、そこから新たな人生の目標、未来のビジョンが創られていく。
 しかし「基本軸を忘れたら迷走するだけ」

 基本軸を忘れてその時その時の情況で行動すると、「脳」はチグハグな記憶を刻み間違いばかりを繰り返す事になる。
 人生は迷路だが、その道筋を四苦八苦しながらも迷わずに歩いていくためには、思念も行動もしっかり基本軸を押さえておく事である。

 基本軸とは、書き込まれた「思考のノート」「実践手順のノート」或いは道順を印す地図。建設計画の図面。もっと平たく言えば、買い物のためのメモである。闇雲に思いついたまま買い物に出かけ、沢山買い込んだが、一番必要なものを忘れて買わずに帰る。誰しも経験済みの事。
 
 人間関係の基本軸は相互のコミュニケーション。
 仕事の基本軸は時間と労働を提供して対価を得る事。
 人生の基本軸は生きて学び心を磨き、芳醇な魂を創る事。 
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■■■衆院解散雑感
2005/08/09 Tue未分類
 やはり、と思う意見が多数。奇人変人の宰相が取った究極の政治手法。賛否両論あるが、もとよりこの郵政民営化法案自体は小泉改革路線の第一の旗印であったわけで、過去衆参両院選挙や党の総裁選においても小泉氏が繰り返し訴えてきた「公約」なのである。今更、なんでこんなにもめるのか? である。他方、首相が政治改革の公約通りに行動した結果、派閥中心の党内人事や政官業一体の政策調整などの壊滅にむかった事は評価に値いすると思う。党の政権運営の権力構造の劣化衰退を嘆く者も多いが、これまでの悪しき習慣、政治家や官僚達の政策指針における、裏の摺り合わせや密約といった闇の政治が払拭され始めた事を物語るものである。さまざまな意味を含んで選挙の結果待ちとなる。

 異端児小泉首相の功罪が問われる場面となるが、これも混迷の日本の政局の歴史的必然かとも思う。
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■■■思考と実践は車の両輪
2005/08/08 Mon未分類
 生きる事を考えるのと、生きる事は同じじゃない

 
 人生は記憶の中にある。記憶から新たな思考が生まれ、その思考が新たな行動原理を生む。だが、行動や実践が伴わない思考を脳は経験として蓄積しない。考えただけでは、記憶とならないのだ。記憶に留め置かぬものは単なる思いつきの不確かな観念でしかなく、実体感のある新たな思考の助けにはならないのだ。「脳の経験」にするためには、考え、実践するしかない。「生きた分だけ解り、解った分だけ生きる」のが人生だが、行為しないものは生きた事にならないし解った事にもならないのだ。人生は生きていく中でしか学べないし、運命の輪という現実のドラマからはみ出た所には未来もなく過去もないのだ。人間関係も人間関係の生の場面からしか学べないのだ。失敗も成功も人生の意味は生きている現場を離れて成立しない。生きてみよう。実践してみよう。実存確認の瞑想もよいが終局、観念トリップの迷走にならぬため生きて動いて確かな答えを出してみよう。行動実践によって思索領域、感情領域、そして視覚や触覚や、ありとあらゆる感覚。五感が鍛えられ、その後に第六感へとつながるのだ。生きて考えて、素晴らしい人生の記憶を創っていこう。立ち止まるな! 
 怖がる事はない。私達は生きるために生まれてきたのだから。


 
 
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■■■日曜は芝居見物
2005/08/08 Mon未分類
 中野ザ・ポケット。東京セレソンDX公演。
 「風鈴が奏でる懐かしさと切なさあふれる3つの物語」
 少し前、テレビドラマ「タイガーアンドドラゴン」宮藤官九郎作品に出演していた宅間孝行氏(新宿流星会若頭役)主宰の劇団の二つ目の出し物。「口笛」ー悲しくてやりきれない切なさーがテーマの純愛ストーリー。やんちゃな元暴走族が主人公で、決して賢くもなく、決して厳つくもなく、情にもろい愛すべきアンポンタンの純愛エレジーでした。金髪、茶髪のリーゼント姿がかっこよくもあり、滑稽でもあり。なんと我が青春もリーゼントの時代があり、懐かしいやら恥ずかしいやら。舞台は簡素で日本の茶の間の原風景があって、レトロな気分にさせられました。とにかく演じ手達の間と呼吸がいい! 舞台に賭ける熱情が素晴らしい。小劇場ならではの舞台転換もなしでのシンプルな芝居構成で、役者達の演技の力量のみで見せきる気合い所の作品であります。笑わせ泣かせ、考えさせる。観劇後のしんみり感がなんともたまらない。
 まだ14日まで公演中。詳しくはhttp://www.ts-dx.com
興味のある方は是非。
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■■■ヒロシマ
2005/08/06 Sat未分類
 原爆の日。今年は戦後60年を迎える平和金字塔の記念の年。
 戦争放棄を唱えた平和憲法のもと、日本は戦火に見舞われる事なく、又戦火を見舞う事なく、この60年を守り通した。過去の人類史を見てもこの長きに渉る非戦の日々は奇跡とも言えるものである。いかなる国もいかなる民族も、60年の間にはさまざまな時代状況に遭遇していくものである。類い希な地獄を背負わされた国であり、又その後の長き安寧も類い希な国である日本。世界に範を示す使命があるものと思う。
 世界情勢のもと憲法も改正し、軍隊の保有やむなしという昨今の政治情況だが、ヒロシマ、ナガサキを忘るべからずである。私は戦後に生まれ、悲惨な戦時を知らない世代だが、語り継がれる激動の昭和史に耳を傾け、後世に伝承していかなければならないと思う。合掌。  
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■■■康秀相談室・探訪
2005/08/05 Fri未分類
 ちょっと相談風景など覗いてみますか。

 某女性の運勢判断。恋愛、結婚の展望。

 職業はフリーのクリエイターとしておく。年齢三十五才。背が高く痩せ型、業界人らしく短髪。目鼻立ちはくっきりはっきり。特徴的なのは大きな口。よく笑い,よくしゃべる。多情多感で話が大げさ、声が大きくいつしか男言葉になっていく。美人でもあり愛嬌もたっぷり。しかし残念ながら色気がまるでない。仕事は有能で周囲から重宝がられている。動き回る事が大好きで現場現場を飛び回っている。
 さて、占い方は五行易で勝負! サイコロが六個入った長い箱をカチャカチャと振り気合い一発、卦を立てる。寅月壬申日戌亥空亡
 身命の占で巽為風の初と四変。結婚の展望で水天需不変を得る。

 「一体、何のために自分はあくせく働いているんだろう。仕事となったら馬鹿みたいに一生懸命になって、何から何までやってしまう。ほんとうによく働く人だねー、貴女は。でも最近は自分のやってる仕事も、もはやここまでといった感じで終末感を味わっているんだろうね? 何の達成感もなく、ただ闇雲に働く。そんな自分がいやになってる訳でしょう。女三十半ば、今の時代じゃ行かず後家と言われる事もないだろうけど、そろそろ自分自身の幸せをどう創ろうか、などと考え始めているのだよ。もっと、辛辣に言わせて貰えば{ああなんだか切ないわ。いつの間にかこんな私になっちゃって、女を捨てるつもりはないのに、女の部分はかなぐり捨てて現場現場で張り切っている。まるでオヤジの乗りで生きてるじゃん! いやかなりやばいかもしれない}とか思ってるんじゃない?」
 「当たりー!」
 「取り巻きには数多くの男性も居て、個人的にも男友達は沢山いるでしょう。でも彼等は貴女を恋愛対象にするでもなく、まして結婚など論外、ただ面白がってくれるだけでしょう。貴女もサバサバと、ともするといかつい風情で生きてるんだろうね。そんな自分がいよいよ切なくなってきてるんだよ。世をはかなむ、我が身をはかなむ。そんな感じだね」
 「そうなんです。何だかとても辛いんです。寂しいし、今生きてる実感がないんです」
 自分が卦の上位に位置し、社会活動も職業発展ももはや天井といった
情況である。達成感も手に入れる事なくただがむしゃらにやってきたのだろう。上位にいるため威張る気風もあり、白虎の星も臨むので女としてはまるで頂けない代物。しかし身が旺じていて兄弟の星神(働き星)なのでとにかくよく働く女なのである。占断はまだいろんな場面を告げているが、次のテーマに移ります。  

 さて結婚の展望
 「あなた、本当に結婚を望んでいるのかな? 嘘ついてるんじゃないの」思わず訝しい顔つきになって問いかける。
 「いえ、そんなことないっす。もうどえりゃー年だしいっぺんくらい結婚もしていいかななんて思ってるっす」ときた。結構投げやりな表情になってくる。
 「占った結果では、結婚の展望はかなり暗いよ.たとえ相手が居たとしても訳のわからない難癖つけて相手を蹴散らしてしまうと出ているよ。だいたいが結婚生活には向かない精神構造なんだから普通の結婚なんか考えたってまず無理!」
 「やっぱそうか。ふんふん。あたしって年寄りでもいいんです。バツ1でもバツ2でもいいんです。そのほうがいいかもしんないっすね」と言い切る。ふしぎな事に下から二位にある官鬼(夫の星、男の星)が月の寅に臨み日から沖を受けてひそかに動いている。ひょっとしてそんな候補者がいるのかもしれない。
 「話がない訳じゃないんだけど、、、でもやっぱ駄目か」と勝手に納得している。
 
 いろんな人が来ていろんな話をしています。五行易に精通している方は卦を書いて納甲(十二支・星神)を配置して分析してみて下さい。又新たな解釈もあるでしょう。是非ご指導下さい。今日はこのへんで。
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■■■現実逃避の先は空っぽ(自分からの逃避行)
2005/08/04 Thu未分類
 逃げても逃げても追いかけてくる。逃げ場なんか何処にもない。逃げたその先は空っぽの世界だよ。自分から逃げる事は出来ない。逃げ切れたと思うその世界はイリュージョン(幻想、妄想世界)。いつも相談者に言い聞かせている事。「俺から逃げても、てめえからは逃げられねえぜ!」と言ってやる。
 さて、追いかけっこするのはどうなんだろうね? 
 叶わぬ夢のまた夢。つかまえたものは願望の肥大したお化け!
 「追いかけっこしても、永遠にゴールは無いんだよ!」ともいってやる。必死に追いかけてヘトヘトになるだけ。
 自分が何処にいて何ができるか、よーく考えよう!
 よーく考えよう、お金は大事だよ!
 それよりもっと大事なのは自分自身だよ!               
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■■■床屋に行きました
2005/08/04 Thu未分類
 二ヶ月ぶり、かなり伸びてました。パーマをかけ、ビシッときまってます。顔立ちのせいか短髪だと堅気に見えないようです。この間、渋谷で職務質問、略して職質をうけてしまいました。薬の売人か、人買いか、かなりやばい奴に間違えられてしまいました。カバンの中を改められ、「これは何ですか?」出てきたのは断易の道具、サイコロが六個入る箱であります。「???」いぶかしそうなお巡りさん二人。「ちょっとやばい仕事してましてね。実はあたし、易者でまじない師なんです」と答えてにんまり笑ってやりました。本音はとても切なく悔しかったのですが。カバンの中から手鏡が出てこなかったのは幸い。勿論、某経済評論家じゃあるまいし、携帯してはおりませんが。黒いシャツに派手目のネクタイ。本人はデザイナー気取りがとんでもない場面展開。誰に言っても「やっぱりねー!」トホホ 
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■■■夏はウナギ
2005/08/03 Wed未分類
 常連のお客様、ブログのご案内をした所、さっそく読んで下さり、今日は久々の相談でお見えになる。「先生、ブログ見ましたよ。ところで先生はウナギが好きなんですね。」ときた。「???」
 一体何のことやら? 「だって紹介記事にウナギが好きって書いてあるじゃないですか!?」「えーっ、ウナギ? 嘘だろ、そんなこと書くわけないじゃねーの」すると彼女「??? 変だな、だって書いてあったもん」
 「解った。それウサギのことだよ。ウサギが大好きって書いたんだよ」「あのー、これおみやげです」手渡されたのは何とウナギの蒲焼きでありました。もう大笑いとなり、しばらくは相談も出来ない情況となりました。「もちろんウナギは好物だから、おいしく頂きますアハハ」
 こんな読み違いは大歓迎かも。
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■■■人生雑感
2005/08/02 Tue未分類
 過ぎゆく時の中で、一喜一憂して暮らすのが人の常ということか。明日の事が心配で心配で、きょう一日を憂い惑いの中で生きる。なんとも愚かで、なんとも悲しき性というものだ。泣くも一日、笑うも一日。時の流れは情け容赦なくあらゆるものを過去へと押しやっていく。明日、あさっても三日もたてば昨日、おとといにしてしまうものだ。そう考えれば楽になるのだが、人は日々の生で思い惑い、悩む性(さが)を持っている。どんな人も運気の狭間に遭遇したり、生活に裂け目が生じたり、ふとした事で誤解を受けたり、行動が阻まれたり、思いどおりにならない情況になると、思考がマイナスのベクトルにむかってしまうのだ。思いが人生を創るという。人は思考するからこそ人なのである。生きていく事は思いの中に自分を探していく行為そのものなのである。運の裂け目には「自分が見つからない。自分を感じる事が出来ない」そんな情況は生きている事から遠いのであって、だからなんだか悲しくなる。なんだか切なくなる。「自分は何を背負って、そして何処へ行こうとしてるんだろう?」 「ところで自分って一体何者?」自分というかけがえのない存在。それが一体何によって支えられているのか? 自分が自分であり続ける事ってどういう事?         
 人はさまざまな対座する関係実相の中で、自分を把握し、その与えられた立場、条件のもとに自らの演じどころを決めて、そして生きる。いつも与えられた舞台でそれらしい衣装や仮面をつけて、行為していくものである。そのペルソナ(仮面)をはぎ取って素の自分を取り戻したら一体どんな事が起きるのだろう? 自分が自分であろうとする事は実際にはあり得ないことかも知れない。いつだって目の前に向き合う者達の目の中に小さく写し返されるものこそが、小さな小さな自分の存在理由だったりする。選んでるはずの人生なのに、いつしか選び取る事なんか出来なくなって、それより前に選ぶこと自体が見えざる何かの差し金で否応なしなのかも知れず、一体自分の足場が何なのかも解らなくなってしまう。            
 こうした情況から、果たして自分を作り直し自己解放するにはどうすればよいのだろう?
 それは、難しい事なのだが、結局、自らの存在の原点に立ち返って、もう一度組み立て直すより他はないのである。つまりは人は所詮向き合う者との関係実相の中にしか人生が無いのである。したがって、その関係性をこそ修復するしか手がないのである。らしい仮面をつけて演じているその生き方がつまらない自己欺瞞であったり、不正直な自分の生き様が自分の首を絞め、苦しみ追いつめている事になるのである。向き合う者の目の中にあると、閉じこめられていると思うから辛いのであって、擬態を演じ続けた事の結果の苦しみと理解していくのである。    今後はあるがままの自分を周囲に差し向けるのである。人は元よりとても小さな存在なのである。小さな自分をカミングアウトした瞬間から人は少し大きくなっていくのである。自分は人より優れている。こんな筈じゃない!」と思う所から悲劇が始まっていくのだろう。又、この全く逆の自己卑下の仮面を纏う者もある。「私は馬鹿で阿呆で何の取り柄もない。生きてる意味もない人間だもの」という擬態で自己防衛にはしる姑息な者もある。この場合もやはり向き合う者との関係性に失敗した悪想念であり、幸せな未来ビジョンを創るすべはない。人生を操るものは、作為、無作為を問わず、知らず方向性を決定づけるセルフイメージである事を知らなければならない。
「身に起こる事はすべて心の写し絵」明確な自己対話の世界から確たる明日は創られていくのである。
 何度も何度も自己対話にけつまずき、土壺にはまっている康秀だからこその見解であります。今日はこのへんで。


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■■■占いの実態
2005/08/01 Mon未分類
 占いとは、「さながら暗闇にて象を触るが如し。」                                         ある者は言う「象とは、縄のようなものであるな」又ある者は言う「象とは、ブヨブヨしたホースのようなものであるな」ある者は言う「象とは、太い木の幹のようなものであるな」又ある者は言う「象とは平べったい葉のようなものであるな」又ある者は「象とはテントの天井のようなものであるな」ある者は「ウワー*?象とは匂いの強い温泉の吐き出し口のようなものであるな」それぞれが触った場所で勝手な事を言っているのである。尻尾を触り、長い鼻を触り、太い足を触り、耳を触り、広い腹を撫で、哀れおしっこを浴びる。すべては象なのである。後ろに回って脱糞に遭遇したら一体何と言うのだろうか?アハハ。みんな象のある部分を告げている。もちろんすべて真実に違いない。しかしながら象の全体像を告げる者は無し。これが占いの現実。大事なのは、「どれだけ触り、どれだけ検証し、どれだけ象の特質を知り、どれだけ象の思いを知るのか」である。謙虚な気持ちで象と対座し、慈しむ心をもって象と語り合わなければならない。さらには、触りどころを熟知しなければ象の怒りを買って踏み潰される事にもなるのである。一流の占術家は熟練の象使いの如し。ある意味で命がけの仕事である事を認識しなければならないと思う。日々精進してます。
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プロフィール

鎌田康秀

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    吉祥寺で生まれる。幼少の頃、神戸で過ごす。
    学生時代は演劇青年(不条理系の芝居}。今でも芝居好きで、観劇が趣味{ジャンルは問わず)。占術家以外では一時期、クラフトデザインの仕事に就いた事がある。少し絵心もあり。犬、猫、ウサギが大好き。でも一番好きなのが、やはり人間。思いを共有できた瞬間が最高。語り合う中で未来ビジョンが出来た時が最高。

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